シェアリングエコノミーとミニマリストの終焉、さて、Post Coronaで開疎化を目指す未来を私たちは獲得できるのだろうか

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最初にシェアリングエコノミーという新しいコンセプトが登場してきた時、私はなんて素晴らしいんだろうと感じ、これこそが誰もがNetに接続するようになった結果の、消費の進化形態だと思ったものです。

邦題、’Share’というこの本、丁度10年前に出版されたとき、すごく感動したことを覚えています。


でも、あれから10年たって、当時の希望も期待もすべて裏切られた。

AirB&Bは、たんなるもぐりの民宿供給となり、むしろ普通の住宅街の治安を悪化させたりするこん羽目になる。

新しい働き方として当初もてはやされたフリーランス、あるいはGigごとにお金を稼ぐやりかたは、

結局マッチングサイトの一人勝ち

だから私はすでに、こんな記事を書いている。

‘日本でウーバーが決して普及しない本質的理由’ ??, いや、普及しなくてよかった。今更こんなこと言う?ギグエコノミーという闇が見えてないのでしょうか!!

シン二ホンを読んで、未来について考えるのはとても大事なことであるけど、高々まだ20代なら、そんな未来の前に

地獄がまっている

今の若い人たちのうちで、例えば彼らの親の世代に比べて、どれほど過酷な経済状況下で生きているのか、その実態も、’シン二ホン’には赤裸々に取り上げられている。

さて、そんな中でのこのもうはっきり言ってしまえば、まるで

黙示録的な、コロナ禍

シェアリングエコノミーが結果的に、過酷なまでの市場主義を解き放つだけになった最大の原因は、

グローバリゼーション

先進国の、いまや彼らの親たちの世代のSecurity Blanketはもうあてにできない若い世代と、発展途上国、そして今や発展中の中国を中心としたもと第三世界の人々と、ガチで競争させられるだけ、それがGig Economyだったのだけど、

ほんの数か月で、

グローバリゼーションにリバースがかかり始めた

で、その結果今までと同じ形でのGig Economyにもリバースがかかる。

結局白タクに過ぎなかったUberに乗るのも、もぐりの民宿でしかないAir BandBで部屋をかりるのも、コロナ禍を経験し、そしてそこからの明確な脱出への道程が見えない以上、

安全性の保障されない誰かが使った何かをシェアしてほしいとは思えない

では、ミニマリストはどうなるのか?

結局ほんの少し前まで、Youtubeなどで人気のあったミニマリストのライフスタイルは、

究極的都市化のあだ花だったと思う。

ただ、今までのミニマリストにしろ、シェアリングエコノミーのオリジナルの考え方にしろ、

そもそも、

資本主義最終形態としての消費至上主義への、異議申し立てだった。

それは、たとえば昭和の新左翼とか、共産主義への幻想の代わりに登場したのではないかと今の私は思う。

だから、いまさら以前の

全開消費至上主義にはもどらない。

けっきょく、今までのミニマリズムが都市化のあだ花になってしまった最大の理由は、

Community感覚の欠如だ。

だって、ミニマリストのままじゃ、子供や家族はとても持ちにくい。

無駄や、ある程度のカオス抜きで、子供なんて絶対育たないし。

人が二人以上いたら、すべてが完璧に効率化されることもあり得ない。

シェアリングエコノミーだって、Community サイズだったら素敵に機能できる可能性を秘めている。

ミニマリストたちのように、物を無駄にしたい、消費至上主義に踊らされないのは大事なこととして私たちは学んだのだから、たぶんこれからはかなりBetterなバランスをとりもどせる。

そうだ、コロナ禍は、私たちが、自分たちのバランスをとりもどす実は良いチャンスなのではないかと思う。

まとまらなくなってしまったけど、ずーっとシェアリングエコノミーの破綻の先について考えていたので、これからあれこれ具体的に考えるとっかかりがつかめた感じです。