アメリカで何度も読み返した本 その1 森茉莉 ’甘い蜜の部屋’

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この前のKindle の話の続きになりますが、逆にKindleがなかった頃、更にIpadすらなかったころは、もちろん紙の本を読むしかありませんでした。

iPadがリリースされたのが2010年の春、

Amazon Japanで普通に本が注文できるようになったのが、2001年位からです。

大体、Webで日本語のサイトが読めるようになったのが1990年代も終わりに近づいていたと思います。確かあの頃はまだあったブラウザーNetscapeに日本語を読める機能がなくて、WindowsについていたI.E.に変えたのをはっきりと覚えてます。

あの頃はGoogleもまだなくて、結構Yahooでカテゴリーを使ってサーチしてました。

ですから電子書籍を読んでいる時間のほうがまだずーっと短いのに

何かもう長い間Kindleで読むほうが当たり前のようになっていて、紙の本の重さがきつくなっていたのですね。

でも、紙の本がなければ私は特に最初の数年とてもじゃないけど精神的に辛かったと思う。

だから、一番最初に留学の形式でアメリカにやってきた時、日本から船便で私なりに選んだ本を送りました。

あのころ、つまり1985年、船便はものすごく時間がかかりました。確か3ヶ月近かったと思う。

12月の頭に日本を発って、確かあれは2月でした。

あの年オハイオ州北部は大雪の年で、とにかく寒くて暗かったです。勉強する以外ほとんどひとりぼっちでした。

これには理由があって、私が入居したのは普通の学生寮ではなく、学生寮からのオーバーフローを収容したり、学生の家族が泊まったりするGuest Houseでした。

きれいといえば、学生寮よりきれいでしたし、一人部屋でしたがとにかく寮としての最低限のコミュニティもなく、まだ会話があまりできない私は友達らしい友達もできなかった。

だから、日本からこの船便がついた時本当に、本当に嬉しかった。

私は基本、本さえあればどうにか生きていけます。

その意味で、ひきこもり気質ないとも言えない。今でこそ家族、特に娘がいるし、しかも客商売をするようになったのでまるで変わってしまいましたが、

私には、丸一日誰ともしゃべらない日アメリカに来てからずいぶんありました。

さて、確かダンボールふた箱分だったと思います、日本から届いた私の本は。

で、そんなのすぐ全て読んでしまいますよね。

アメリカに行ったあと、父が生きていた1994年までは、ほぼ毎年New Yorkにいくことがあり、あと日本にも一年おきぐらいに戻ってました。

そんなときにとにかく一番買うのが本。

それでも、そういうのってまあ一ヶ月ぐらいしか持たない。

だから、このサブカテゴリーのタイトルが生まれたわけです。

本当にずいぶん長い間、自分の持っている本を読み返したことか。

そんな中で、多分一番読み返したことの多かった本がこの本なのです。

実はこの本を最初に読んだのは、アメリカに渡る更に3,4年前だったはずです。で、未だに手元にある。

さて、森茉莉を知らない若い人がいまはほとんどなのでしょうか。

さすが、腐女子にはこの人の名を知っていて欲しい。

だって、彼女こそが元祖BL作家みたいなものだし、腐女子の萌えのはじまりでもある。そちらの小説はこちら、

森茉莉は文豪森鴎外の一人娘で小説家。

多作ではないけど、Singularな日本人の作家としては本当に類を見ない作品を生み出した一種のモンスターです。

この小説は、いわば彼女と父である鴎外とのかなり実の親子としては、またもや日本人離れした濃密な関係が反映されていると言われています。

しかも、それは周りがどうのという以前に、彼女が臆面もなく小説同じぐらいSingularなエッセイであっけらかんと父親への憧憬を語っていますから。

私はそもそも彼女のエッセイが好きで、しかも単行本で読むよりずーっと前に、昭和の奥様雑誌ミセスで連載中にみつけては、耽読していましたから。

何度も読み返せる小説というものは決して多くない。ワクワクしながら読んだ小説も、一度最後まで読んでしまうとそう読み返せるものではない。

当然、ストーリーそのものは、一度読んでしまえば、興味をそそる力をほぼ失ってしまう。

何度でも読み返してしまう小説後からは全く別の特別さで無くてはならない。

この小説を読むことは、私にとって官能的な経験であり続けるのです。

別に、特別激しい性描写があるわけでもありません。ただ、私の持っている新潮文庫版の解説を書いた詩人の白石かずこがこんなことをいっている。ちょっと長くなりますが引用します。

まず、この部屋に入る前に、あなたは手を洗いなさい。それからあらゆる頭脳についている既成の道徳、しきたり、価値観、そうしたものもついでにキレイに石鹸で洗い落として、この小説の女主人公モイラのように、李の匂いのする美味なものを単に味わう、というきわめてしぜんな、感覚的欲望に屈託なく見をまかすこと、貞操などとは、いささかも考える必要はない。

これだけのことを、この長編小説をよむ前にすませてから、’甘い蜜の部屋’をのぞいていただきたい。’

本当に、この小説の文体ほど読むほどに目の前で奔放に体をくねらせる何やら美しいものとして目にはいってくるものはない。

私は、この小説の引用はしません。実はこの小説ほど豊麗な旧漢字表記そしてルビを使っている小説は思い浮かばないので。(唯一の例外は、小栗虫太郎の’黒死館殺人事件’。ただあちらは官能ではなく、ゴシックと呼ぶべきものです。)

多分、日本人の男で森茉莉の特殊な才能を唯一理解していたのは三島由紀夫です。そういえば彼もゲイでしたね。