私は実は森瑤子の小説を結構読んでいる。
ただそれは私が彼女の小説の大ファンだった意味ではなく、実は同じような理由で林真理子の小説も結構読んでいる。
理由はもう単純で、まだAmazonもキンドルも、いやWebもなかった時代に、私の住むMarylandでお手軽に手に入る文庫本が、彼女たちの小説だったから。ふた月に一回ぐらい訪れていた日本人がやっている、日本食料品店が、そのころ住んでいた家から、車で一時間弱ぐらいのところにあったのです。そこのお店の片隅に、ほんの少しだけ日本の雑誌や文庫本の新刊が置かれていました。
正直にいってしまうと、この二人の小説はとても読みやすくて楽しめたけど、たとえて言うなら、そのころ二人が書いていた小説は、
林真理子が女性週刊誌で、森瑤子がレディースコミックでした
二人ともプロで、その当時のトレンドやら取り込んでいて、適度に下世話で、適度にスノッブ。まあ、森瑤子の作品の方が、スノッブを売りにしていたけれど。
実はある点で本質的に、もうあきれるほど異質な点があったのです。
それは、同性への視線です。
林真理子さんは、とにかく同性の裏をきちんと暴き出すこと手腕が本当に見事で、一方自分自身は、あらかじめマウントを取ってくださいとばかりのキャラを立てている。
一方、森瑤子は、スノビズムを含めて、スタイルの啓蒙みたいな布教を恐れずにやり、一方で同性に対しての立ち位置が、基本母であり、娘であり、姉妹であったりでした。つまり、彼女は露悪的なことを書き続けたし、家族に対してかなり露出趣味ととられそうな内容も多かったけど、そこにある視線が優しい。
つまり、
林真理子は女嫌い、森瑤子はむしろ同性との友愛を求めている
だから、この評伝は美しい。
森瑤子が‘情事‘でデビューしていらい、一定数の男性は、
彼女が書いたような内容の小説を忌み嫌った。これを忘れたくない。
例えば一番印象に残っているのが、戦後の評論家として私が一番買っている柄谷行人。細かい表現は覚えていないけど、彼は‘白人と情事を持つ女‘の話など、白人の植民地主義に隷属する恥ずかしい話といった反発をしている。
でも、こういうのってかなり一方的だと思う。
昔々、浅田彰が、高橋たか子のカソリック帰依を、頭が悪いといった時のことを思い出す。
キリスト教、あるいは白人文化というのは、この二人が指摘したような側面を持つ一方で、女性史視線で見たのなら、日本的女性蔑視構造のなかでの救いとまではいかなくとも魂のシェルターほどの価値が確かにある。
これが全く見えていない日本の男は、正直多すぎる。
大体、基本、エンターテインメントとしての完成度、読者層比べるのなら、林真理子と森瑤子は、そこまで違わない。
でも、林真理子は、直木賞作家であり、今や直木賞の審査員である。一方森瑤子はあれほどまで80年代の、‘女の時代‘と名付けられた虚構の担い手でありながら、
本当に賞に縁がない
ある一定数の日本人男性にとって、そしてそいう男たちは分断にもかなりいると思う、(例えば吉行淳之介などがこのタイプの代表格だ。)日本的洗練を身に着けた性差別主義者たちは、
森瑤子が描く主人公たちが、心の底から嫌いなのです。
そして、割と言われるのがリアリティがないだの、地に足がついていないなどの言い方をされる。
なんで、子宮感覚(例えば瀬戸内晴美、そして中沢けいを本当に男たちはたたえる)ならよくて、女が男に欲情するのはダメなのかというごく単純な矛盾だったりします。
さらに、付き合う相手が、白人だったり、ともあれ外国人だったりるすと、それに対しても圧倒的な反発があった。
この本は、その点、彼女が日本人ではなく、外国人の夫を選んでしまった運命の捩れのようなものをしっかり解き明かしてくれる。
私自身、日本人と一回、アメリカ人と2回結婚しているけど、母国語が違うということは、コミュニケーションに明らかなリミッターがかかる一方で、ある種のクッションとしても作用してくれる。
この本は、経年体ではなく、テーマごとに取材対象を変えることによって、森瑤子を掘り下げていく手法をとっていて、そして最後の2章は、彼女の最も身近にいた女性スタッフの視点であり、‘情事‘が生まれる前後の彼女の女友達たちをめぐっての視点であるのです。
彼女が早死にしたのは、私から見れば、
彼女を表現者として自己実現させるだけの編集者がいなかった
たとえば、角川から独立後、幻冬舎を立ち上げ、数々の話題作を書かせてのし上がってきた見城誠は、たんたんと、森瑤子のビジネスセンスを称える。
でもこれは私から見れば、
文芸編集者としての役割放棄でしかない。
それに対して、実に最適の対比になってしまうけど、林真理子は、数多くの編集者によるProduceを受け入れ、ビジネスでも文壇での地位確立でも素晴らしい成功を収めている。
だから、林真理子の小説は、読んでいる間は面白くとも、読後感が本当に希薄であり、
一方、森瑤子の作品は、どれほど設定がレディースコミックにぴったりであろうとも、
生々しい痛みの感覚が残るのです。
ともあれ、もう一つの読後感は、日本に居続けた彼女は、結局日本の男どもに、奉られ、あるいは毛嫌いされ、そして
殺された
この評伝がとても美しいのは、悲劇だからなのだろうか。
私は彼女に生きていて欲しかった。たとえ、離婚してでも、一人になっても、生きていて欲しかった。