呪術廻戦 第10話, 平成末の炭治郎の戦いが令和の虎杖に受け継がれるなかこの物語の本質的闇が深まる。

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昨夜妹とFacetimeしていて、仕事の話の後私は、次の絶賛お勧めコンテンツとして’呪術廻戦’を進めていたのですが、その時にまあ、

平成の最後を飾るのが’鬼滅の刃’で、令和の幕開けが’呪術廻戦’

という話をしたのです。そうしたら突然妹が、結局’鬼滅の刃’ってどこがすごいのだろうと聞いてきました。いやー、さんざん鬼滅の刃’Goods大人買いしておいて、それ聞くのとは思いましたが、これここ数日考えていたことでもあるのです。

’鬼滅の刃’が、それまでのジャンプ漫画と違うのはもう圧倒的に、

竈門禰津子の存在

それまでのジャンプヒーローとは違い、竈門炭治郎は別にヒーローを目指しているのではなく、あくまで

禰津子を人間に戻すことが目的です

私自身そこまで’鬼滅の刃’に作品としては待ったわけではないのですが、とにかく禰津子大好きです。妹も大納得してました。

で、禰津子のことを考えていた延長で、突然竈門炭治郎と虎杖悠次の共通点、さらにこの二人の間で引き継がれたものがどうしても目に入ってきました。

まあ、子供時代の戦後漫画の創成期以来、ずっと漫画をそして今はそれに加えてアニメやラノベを消化し続けてきた私にとって、どうしても時代ごとの集合無意識の流れみたいなものを、感じ取る癖がいつの間にかついています。

まして、世界全体で見た場合、これらの日本独自のコンテンツほど、集合無意識があきれるほど反映されているものはないと思う。

そして、その現象が本当に始まったのは、いわゆる政治闘争の季節が終わった1970年代に開始されたコミケ以来ということになります。

日本のコミケに対応するような、商業化されることを特別目的とせず、ものすごいりょうの想像、創造が発生される場が、このサイズで、この長きにわたって存在する例はほかにないです。

ともあれ、虎杖と炭治郎の物語にもどって、そもそも、鬼と呪いは、基本日本の文脈の中では全く同じ存在です。

そして、虎杖も炭治郎も、ヒーローではないがゆえに、’悪’の根源がむしろ人間の側にあることを最初から分かり切っている。だからこそ、二人ともこれらの悪しき存在に対して、ただ断罪するのではなく、’救われなかった悪たち’への鎮魂の意識がある。

さて、ずーっとこうやって比べてきて改めて気づいたことがあります。

炭治郎にとって、禰津子は彼の抱える業であり、一方力でもあります。

では、虎杖にとって、禰津子に当たる存在は誰か、恐ろしくも明白な答えは、

宿儺なのです。

つまり、禰津子から宿儺への移行こそが、いわば令和の物語の、

闇の深化をあらかじめ決定している

第10話で、アニメ版は、順平の悲劇を明確化するために、漫画にはなかった、いじめのエピソード、そして彼の映画とのかかわりを描いています。

いやー、私漫画版何度も読んでいるから、正直やり切れない。順平の物語こそが、それまでのいわば呪術高専生紹介編から、本格的な対呪霊闘争へのいわば橋渡しとなるのですが、とにかくどんどん暗くなる。

あ、じゅじゅ散歩、あまりのバカらしさに、ほっとしました。ナナミンの五条についてのコメントとかまだ書いてないことあるし、後今更のように五条という男についてつっこんでみたくなりましたが、今回はここまでで、