私が、初めて自殺したいと思ったのはいつだろう。

たぶん小学生4年生ぐらいだったと思う。

まだ、母屋の浴室は古い作りで、洗面台がその片隅にあった。季節は多分早春。その時のことを思い出すと冷たい空気とそれとは対照的に明るい朝のひかり。そしてコップに飾ってあった桃の花と菜の花の色鮮やかさ。

その幸福そうな風景の中心で、私は洗面台にはった水の中で息をとめた。

こうやって溺れたら死ねる。死ぬと楽になる。

なんでそんなに楽になりたかったのだろう。

今風に言えば私は被虐待児だった。同時に優等生で、母ではなく祖母にそだてられた。祖母の私に対する幼児期の暴力は近所でも有名だったと大人になってから知ってびっくりした。

ほんの少し詳細を足すのなら、私には居場所がなかったのではなく、あるべき居場所でまるで普通に息をすることが出来なかった。さらに、他者とは次の瞬間に厄災をもたらす不確定要素でしかなかった。

 

そういう優等生の私にとって読書は当たり前のように唯一の逃避場所だった。他のすべてについて私は何一つ自由にはならなかったが、読書だけは緩やかに楽しむことをゆるされた。ちょうど同じころ、祖母の友人からのおさがりで、全50巻の子供向けの世界文学全集と、全20巻の百科事典のようなものが私に与えられた。今思うと、子供向けに書き直されてはいるものの、ずいぶんといろいろな内容があったように思う。

 

それはともかく、私は生まれて初めてSFというものを読み、そして宇宙やら、未来世界やらというまったくこことは関係のない世界を想像することを学んだ。

そのころは、アメリカでさえSFはまだほとんど際物扱いで、日本に至っては雑誌の付録などでたまに手に入れることだけが、私にとってSFめいたものを読める機会だった。

 

私は、本との出会いには恵まれている。

 

たぶん、中三だったと思う。あの頃はまだそこら中に小さな本屋があった。通学途中のターミナル駅近くの片隅で、私はSFと、本当に信じられないぐらい幸福な出会いをした。

 

どうしてその本屋が、本屋の大きさに比例すると嫌に数の多い創元社推理文庫のそれもSFの数々を置いていたのか、今考えるとかなり不思議だ。

 

私は何もしらず、ただタイトルと表紙だけで、3冊購入した。

 

’10月は、たそがれの国’ Ray Bradbury、

 

’スポンサーからひと言´ Frederic Brown、そして

 

’時の声´ J.G. Ballard

 

この話をずっとあとで知り合いになったSF好きにすると、必ず感動される。

さて、どれも素晴らしく新鮮で私は幸福な出会いを感謝したが、私というものにとって一番しっくり来たのは、Ballardだった。

 

Ballardの初期の短編集は蠱惑的なDistopoaめいた話、あるいはいわゆるKafkaesqueという感じの、主人公が不条理な状況に置かれている話が多かった。ただ、ほかのその手のは話とBallardとを大きく分ける特徴が二つある。

 

一つは、これは個人的な好みにも関係するけれども、シュールレアリスムの絵画世界を思わせるイメージ。ダリ、エルンスト、タンギーなどの独特な風景が喚起される、絵画的表現。そしてもう一つは、

 

主人公の潔いまでの無力感。日常としての終末。

 

 

破滅はあらかじめ決まっていたことで、もはや恐れるものではなく、安心して抱擁するものだと感じさせてくれる。

そのあと、創元社から出ていた文庫で、Ballardを探し、しばらくの間手に入るものはすべて買った。私の高校時代の内宇宙は、Ballard的な終焉のなかで、きわどく均衡を保っていた。

あの頃買った短編集のタイトル。

’時間都市’

’永遠へのパスポート’

’時間の墓標’

′終着の浜辺’

’溺れた巨人’(これは、Ballardが次のステージに進む直前で、なにか迷っている感がして好きになれなかったが。)

 

感覚だけが残り、ほとんどお話は覚えていない。ただ、いまだに忘れえない夢のように、断片として思い出す。

 

’時の声’は、遺伝子コードが何百万年の年月を経て少しづつすり減り、薄くなっていくという未来の話。

現在の私たちの理解では遺伝子コードはプログラム。だから、それが数えきれないほどのコピーを繰り返しながら劣化していくというのは、受け入れやすいイメージだ。

いまでこそ何か当たり前のようなコンセプトだけど、はじめてこの作品を読んだときは、個としてではなく種としての終わりを想像できた気がし、開放感があった。

 

´終着の浜辺’、英語ではTerminal Beach.高校生の私が一番好きだったタイトル。

 

相変わらず、お話といえるようなものはあまりなく、舞台の美しさだけが凄まじく際立つ。

核実験場として使われたその後のどこかの南の島の浜辺。のこっているのは破損がひどい塹壕と白い浜辺。生物はいない。たしか、主人公と死者が対話していたような覚えがあるが、はっきりしない。

 

あきらめてしまってよいのだろうかと思いつつ、令和の今、絶望的未来は、あまりに日常的認識となっていく。そして、

 

福島の汚染水廃棄が、令和の現実になる

 

だから今、1970年代に書かれたバラードの終末感が生々しい。

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