数か月前に、思い立ってIpadで日本用にKindleを使い始め、その時にいろいろな本をサンプリングしたのですが、その一つがこのSF.

正直、とにかく退屈で、退屈でものすごく読むのに時間がかかりました。

 

 

私は、昔かなり翻訳もののSFを読んでいて、そのあと渡米後は、英語圏のSFを英語のままで読んでいました。

その後今住んでいるメリーランド州Baltimoreに移ってからは、小説よりアニメと漫画に比重ががかり始めていましたが、(Baltimoreでは1999年から2016年まで全米第二位規模の、アニメ及び日本のPop Cultureを中心としたOtakonが開催されていたので、)

伊藤計劃に偶然出会って愕然

 

 

それでまた、機会があるごとに日本のSFをあさるようになったわけです。

 

ですから、‘グランバカンス‘に行き当たったとき、レビュー評価はまずまずだし、今注意して読み返してみるといわばこの人伊藤計劃以前の、最後の注目作家みたいな方なのですね。

 

 

 

そもそも、私が伊藤計劃のエッセイ集を読んで、一番正直感動したのは、彼が当然のことながらサイバーパンクの作家たちを熱く論じる一方で、J.G.バラードジョン・ヴァーリイを読み込んでいるのです。

 

で、この二人の作家とサイバーパンクのかかわりを簡単にまとめてしまえば、

 

J.G.バラードはサイバーパンク的世界観に先行するいわゆるNew Wave最大の作家であり、ジョン・ヴァーリイは、New Waveをサイバーパンクにつなげる、70年代最大の作家ということになる。

 

 

そして今まず、この‘グランバカンス‘を最初に読み始めて思い浮かべたのは、

 

J.G.バラードのやがて、Vermilion Sands呼ばれる一群の初期短編たち。

 

 

これも、どこかの砂漠地帯の近くにある、いたって人工的な永遠の夏を提供するリゾートのいかにも、バラードらしい、退廃的なそして空っぽであるからこそ美しい、すでにレトロに染め上げられた未来の物語。

この地に住み着いたもの、この地を訪れるものすべてにとって未来はあらかじめ失われているから。

 

それに対して、グランバカンスは、人間のために作られた仮想リゾート“数値海岸”の一区画“夏の区界”。南欧の港町らしき設定のリゾートではAIたち永遠の夏を繰り返す。そこでは、ゲストである人間の訪問が100年前に途絶えているのだから。

物語は、突然この世界に崩壊が訪れるところから始まるのです。

 

これだと期待しましたよ。だから今朝やっと読み終わって、あまりの古臭さそして退屈さにかなり腹を立ててます。

 

レトロならいいんです。

後、AIたちの設定や、テクノロジーが古いとか堂埜とかいうことは私は問題にしません。

SFというのは、ScienceをExtrapolateすることはあっても、Scienceそのものではないし。

 

で、この10年間の空白の後と力作ということで、批評家たちの反応もかなり良い作品だというのに、なんなのでしょう。

 

その理由は、彼の初版の後あがきを読んでまあはっきりしました。

なんせ、引用したのが仏作家ピエール・ド・マンディアルグ。この人が一番日本で知られたのは、とてもSMチックな60年代の映画’あの胸にもう一度’の原作者としてでした。

原作はこちら、

映画は、元お嬢さん やがてMick Jaggerの恋人になったあたりから麻薬におぼれて声もつぶしたまだ若いマリアンヌフェイスフルが超エロいです。

 

私は、まだ中学生でたまたま弐番館で’ロミオとジュリエット’を見にいって、一緒にかかっていたがゆえに見てしまった。いや、すでに歪んでいたのにこの映画のせいでさらにこじれましたね。

 

まあ、その後同じような時代の闇を抱え込んだマルグリット・デュラスに出会って、いわばより正当な形で闇と対自するようになりましたが。(彼女の作品については長くなるのでまた改めて。20代の私にとって少女漫画以外で一番重要な作家でしたので。)

 

これでわかるかなあ。

 

ぶっちゃけ、渡辺淳一とか吉行淳之介のジェンダー感と、性的感性がベースなのです。

 

さらにわかりやすく言うと、しょせん理想の女性像が壇蜜とか銀座のホステスさんに投影されるオジサンの感性。もしくはもう少し‘ほめて‘澁澤龍彦‘のジェンダーステレオタイプ。

 

だから、いくら翻訳調の文体でも、底が日本のオジサン

 

退屈だということは、私にとって何一つ響いてくるものも、浸透してくるものもないという意味です。

 

私ン¥が伊藤計劃の文体で一番驚愕したのは、その肉体感覚の生々しさです。だからこそ完成度という点からは上とされれ’ハーモニー’より、’虐殺器官’により思い入れがある。

 

そしてこの辺は、なんといっても70年代最大の奇才、ジョンヴァーリーの作品と比べてみるとはっきりします。

 

70年代というのは、フェミニズムやLGBTの視点がやっと入ってきた世界で、私もせっせとアーシュラ・K・ル・グィンの代表作’闇の左手’をはじめとして読みました。(この人は、むしろゲド戦記の作者、いわばファンタジー作家としてのほうが日本では有名。)

 

 

でも、ジェンダーの可能性について一番衝撃的だったのは、ジョンヴァーリーの作品群だったのです。

とくに、この短編集の表題作残像はすさまじい。これ完全に日本のオジサンの理解を超えていると思います。

 

 

今この本中古でしか手に入りませんが、この表題作はアメリカではヒューゴとネビュラのダブル受賞したしろものです。

でも、いまAmazonのレビューを読むと、この作品がまるで理解できないらしい。

 

それがオジサン問題なのです。

 

この作家は、非常に想像力に富んでいる反面、一見結構わくわく感がたまらない、スペースオペラシリーズで、八世界シリーズというものを書いてます。

こちらはとっつきやすい。

 

で、実は八世界シリーズ後期の長編で、たぶん残像を理解するのに最適な作品があります。

 

この作品、なんせ主人公の性別が、大体確かお話が1/3ぐらい進んだところで、男性から女性に代わります。

 

ともあれ、´廃園の天使’シリーズII,′ラギッドガール’は読みます。設定は面白いと思うし、あまりに何事も進展しなかったままなので。どうかもう少し面白くなりますように。

 

 

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA