実は私は二十歳になる前に、一度結婚しました。
高3で、完全に壊してしまったそれまでの自分が、まだばらばらであったころに、この最初の配偶者と出会いました。
それは彼自身がそれほど素晴らしかったというわけではなく、彼がその時しつらえていたその自室がとても素敵であったから。
彼の部屋は窓以外すべて背の高い本棚で覆われ、さらに同じ高さの本棚がベッドを隠していました。
あの時、彼は本の中に生きているように私には見えました。
ただ、つい会い始めるにつれてはっきりしてきたことは、彼は本を読むことが私ほど好きなわけでなく、幻想文学、そしてそのころNew Waveと呼ばれていたSF小説のサブセットをはじめとして、一種の本のコレクターでした。
例えば、SFマガジンを創刊号から所持していたり。
私が、たまたまJ.G. バラードを良く知っていたことと、あと、超現実主義絵画に詳しかったことが、まあ親しくなるきっかけであったと思います。
私は本を含めての彼にとても安心感を覚えました。
そして私がそのころ耽溺していたような、観念やら奇想を彼も愛しているように思えたので。
私との結婚は、彼をこの部屋から連れ出すことになり、それは彼の部屋を中心に生まれていた心地の良いサロンのような空間を壊すことになったのだと思います。
結婚後も、私の現実乖離感はあまりへらず、特に1月の終わりから3月の初めにかけてひどくなることが繰り返されました。
現実のなかで、私は父に紹介してもらった高卒事務員の仕事の途中でやめ、彼の友人関係のつてで、フリーのライター的な仕事を少しずつ初めてはいましたが。
でも、今思うと得意だったのは本を読むことと、読んだ本にあきれるほど耽溺することぐらいだったと思います。
そんな時に、トールキン作 指輪物語の邦訳が初めて評論社から出版され手元にやってきたのが確か年の暮れ。
私は’旅の仲間’をたしか二日ぐらいかけて読みふけったはずです。
で、その間私はすぐ近くにいる配偶者をほとんど完全に無視し続けました。
さすがに彼も怒り出したのですが、あの時の私には彼の怒りを理不尽と感じていましたから。そのころから、離別が避けられないだろうということが私にも見えてきましたが。
指輪物語は衝撃でした。それまでファンタジーというのは基本童話をもう少し大掛かりにしたものというのが日本での(そして指輪物語以前の英米国でも)常識でしたから。
中高とミッションスクールだったので、ナルニア国物語とかしっかり読んでましたし。長編ファンタジーというと、これがそれまでの基準でしたから。
何がショックだったかというと、あの濃さと緻密さ。トールキンは言語学者だったこともあり、いろいろな言語をこの物語のために創造してしまったということひとつとっても、レベルが違う。
今の若い人たちは指輪物語を映画でまず見ていることがおおいでしょうね。
私の場合、映画をこちらで見た後、今度は英語版で久しぶりに読みました。ちなみに指輪物語の映画化が最終的に、ほぼすべてのファンを魅了したのは監督の手腕もさることながらキャスティングの完璧さ加減だと思います。
なかでも4人のホビットとゴクリ(英語だとゴーレム)。
そのせいか、映画の場合実は一話旅の仲間が一番好き。ことこの映画に関しては、Extended Versionも持っているのです。
私は、この四人が住み慣れたホビット庄を発ち、そしてそれまで未知だった、外部世界との境界を超える第一歩を踏み出すシーンがすごく好きです。
あ、これも私にとっての大きなKey Event Typeのひとつ出エジプトですね。
平和で、いわば無力なホビットたちが。指輪という世界破滅の象徴を滅ぼすという重い使命の担い手となっている点で、いまだ指輪物語を凌駕するモダンファンタジーは生まれていません。
決して読みやすい本とは言えないのですが、この本を読むことはあなたにとって濃い体験となることをお約束しましょう。