マズローの欲求五段階 というピラミッドをご存知ですか。
一度アメリカ人のサイトで、これをFinanical Planningの Frame Workとして使っているのを見かけたことがあります。
どうやって、自分が必要だと思っている分のお金を蓄財かつ、投資とかまあまわしていくわけですが、一方、どれだけのお金が何のために必要なのかということはほんとうに考えない。
ここで、まずマズローの欲求5段階の復習
アメリカの心理学者アブラハム マズローが、人間は自己実現に向かって成長を目指すものだと仮定して、その段階を人間の欲求の5段階の階層に構造で表現したものです。
第一段階 生理的欲求 (Physiological needs)
第二段階 安全の欲求 (Safety needs)
第三段階 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
第四段階 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
第五段階 自己実現の欲求 (Self-actualization)
もちろん、仮定である自己実現とは果たして何なのかという点に、いろいろいちゃもんをつかられやすいのですが、正直下から上へと上がっていく順番は、フレームワークとしてとても使いやすいと思うわけです。
では、始めてみましょう。
第一段階 生理的欲求 (Physiological needs)
第一段階がカバーするのは、いわゆる生きていくために最低限必要なものです。眠ること、食べること、排泄すること、そして生殖期間であれば(十代後半から)性欲も一応含まれるでしょう。
ところが、私たちいわゆる先進国に住んでいる人間にとって、たとえこの第一段階の属する欲求を満たすものでさえ、ことはそう単純ではありません。
ここでは食べることを例にしてみます。
考えても見てください。日本やアメリカの女性が、たぶんたくさんのお金を費やしているのは、何を食べるかではなく、どうやったら食べないでいられるかということ、つまりダイエットです。
第四段階の安全欲求に属する健康のためというひともいるかもしれません。でも実際は’外見’を改良してよりメインのそしてより上のカーストに属したいと言うケースが多いと思います。第三段階の社会的欲求や、第二段階の尊厳、そして承認欲求までかかわってくると言うことです。
これはどういうことかというと身体の欲求を満たすはずのものがそれ以外のそれより上位の、より高次の欲求を満たすために使われていると言うことになります。そしてそのために多大なお金が使われている。
もちろんグルメレストランなどで散財するのも微妙です。
さすが身体にいいものだけ食べるというのもいわば第四段階が完全に第五段階を支配しようとしているようなものなのでとても自然とはいえませんでぃ。
私たちがレストランで散財する時それはほんとうに自分の食欲、そして味覚を満足させるためでしょうか。それともステータス(第二)、他の人とおなじでありたい(第三)という欲求の具現かでしょうか。
私個人の経験を考えてみると子供時代親に連れて行ってもらってすごくおいしかった思い出のある店は限りなくピュアな第一段階欲求の満足といえます。それ以外ですと、お店のおしゃれ感と第一段階欲求度はほぼしっかり反比例します。
なぜこんなことが大事なのでしょう。
自分の欲求を確実に満たしてあげる時私たちは満たされます。
でも、Aと言う欲求を満たすつもりで実はその影にBと言う欲求が隠れていたら、いくらAを満たす行動をとっても満たされない。
で、もちろんこれは再現のない消費につながります。
私が本当においしいと思えるものってそんなに高いものではなかったりします。
たとえば、その意味でこころからおいしいと思える朝ごはんというのはピュアな第一段階欲求の満足を与えてくれる良い例だと思います。
日本は基本的な文化が一番’拝金主義’から遠い国のひとつだと思います。しかも日本はチベットやブータンのように宗教的な特別な土台がなしにあり、その上先進国です。
日本でふつうに食事のたびにいっていた’いただきます’と’ごちそうさま’はとても良い言葉です。
大体、バブル崩壊のあと清貧にここまで走ったのは日本ぐらいですし、その後の草食男子とか物欲の少ない世代の台頭も日本が先を切っています。そうそう断捨離もこういう欲求の再点検から来ているわけです。
お金との健康な付き合い方を考えるのでしたら、まずは自分と食べ物の付き合い方を考えてみるの結構役にたちます。
第二段階 安全の欲求 (Safety needs)
生理的な欲求を満たしその次に満たされなければならないのは安全欲求、いわゆるShelterですね。
安全に保護されて心と身体をやすめられること、そして心と身体の健康を守り維持することもここに含まれます。
健康維持は欲求というより、私たちにとってはより快適にすごすために保ちたい状態といったところでしょうか。
その一方で、世の中にはおよそ健康にはよくないけど一時の欲求を満たしてくれる誘惑が満ち溢れています。
そして一番人間的でかつ恐ろしいのが各種の中毒。アルコールでも、煙草でも、薬物でもおよそこの健康でありたいと言う本来なら自然な欲求からどんどんかけ離れていく。
そしてもちろん、こういう不健康な習慣にそまり、中毒までいってしまうともちろん金銭面でも破滅がまっています。一体私たちはそこまでして何を満たそうとしているのでしょう。
ふと思うのですが、マズローのピラミッドは普通低次から高次の欲求の順に並んでいると言い方をしますが、それよりもより肉体的そして具体的なものから、社会的そして抽象的あるいは哲学的な欲求と言ったほうが、ぴんと来ますね。
これって、私たち人間が限りなく不自然になり自然な欲求を満たすことからはなれていくと言う感じしません?
不自然な欲求というのはいくらそれらを満たそうと’たとえばアルコールに溺れ、薬を取り続けても、もちろん満たされることなんてありません。
それは簡単にいってしまえば満たされるためにはその背後にあるより抽象的な欲求を満たしてやらない限り何も変わらないのですから。
もちろんそんな欲求をどうやって探すかなんていうのは私の手に到底負えるような問題ではないし、まあ、今回の私のテーマから離れてしまいます。
健康と同じぐらい、この安全欲求にかかわってくるのが、シェルターもしくは私たちの住む家、ホーム。
私の場合、実はは自分の家族といても緊張する人間でした。
アメリカで自分の家をもってはじめて自分の拡張としてリラックスできる空間が生まれたとかんじたのですね。
あ、これって実はかなり根源的な安全欲求のあらわれでしょう。
英語でHearthという言葉があります。
直訳すれば炉辺ということになります。暖炉のようなもののことを思い浮かべてもいいのですが、それよりも、もっと昔台所と食堂をかねた部屋にある煮炊きもする暖炉兼用の炉がもともとの意味です。
これつまり、西洋の簡素な家の中心、あるいは肝と読んでもいいかもしれない。太古より、燃える火こそが人間たちを獣から守り、そして食べ物をおいしくし、何よりも温めてくれた、その焚き火が家の中に移ったのがHearthです。
ですから安全欲求とは人間のHearthを求めるこころと言い換えていいかも知れません。21世紀ですから、実際に火の燃える暖炉の必要はありません。
寒い夜みんなで暖を取りながらゆったりとできるスペースがHearth.
大きな家、素敵なインテリアより、心を暖めてくれる空間こそが一番だいじな良き家の要ということになりませんか?
とはいえ、いまや安全欲求を満たす場所が、リアルではなく、バーチャルだったりするのもありですよね。
まあ、これは、第三、第四の欲求階層とどんどんかぶってはいきますが。
第三段階 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
私基本、典型的拗らせ女子でしたから。いまだに格闘中です。私ははっきりいって人間が怖い。人間だけが他の人間を傷つけることができるから。
ただその怖さがだいぶ薄らいできたのは娘をもってからです。
正直、私にはまともな親になれる自信がないどころか親として子供を果たして愛せるのだろうかという疑問すらありましたから。
親なら子供を愛せるのは当たり前的な話を聴くたびに首ふってましたから。
ただ娘が生まれて、どうせたいした親なんかにはなれないからできるだけのことをしよう。間違えたときは謝ろうとだけは心に決めていました。
私、ストレスは貯めまくるし、予期していなかった金銭的苦労はしょいこむし、娘にかんしゃくおこして怒りをぶつけたことなんてずいぶんありますし、これからもあると思います。
でも私が悪い時は謝ります。
そうすると子供ってかなり簡単に許してくれるのです。
子供に許されると、間違いを起こしても許してくれる人って結構まわりにいるのだと少しずつ気がつくようになりました。
そうなるとほんとうに少しずつですが人間が怖いという脅えが薄れていきます。
ともあれ、よほどのことがない限り、親はなんだかんだいっても嬉々として、子供にお金使うのよね。
実は、人のためにお金を使うのって、満足度のコスパがとても高いのです。(そういう、心理学者の研究結果がすでにあります。)
そうそう、日本の場合、特に男性のほうがより社会所属欲求が強いのは、愛の欲求の抑圧ということになりますね。
特に日本の場合、典型的なおじさんが、世界中見回しても家族と過ごす時間最短です。だからこそ、日本の水商売、いや風俗でさえ、実は第一欲求ではなく、この第3欲求を満たすためのものでしょう。
だからこそ、感情ビジネスがはやっている。
この辺を実に的確に分析した本がありますので、進めます。
水無田 気流さんの’居場所のない男、時間がない女’
でもそれ言うと、オタクが自分の萌えに多量のお金を使うのは、やはりこの段階にはいることになりますね。なんか、また自分にもどってきましたね。
第四段階 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
さて、承認欲求です。
戦後の消費社会って、第一、あるいは第二欲求をみたすつもりで、その実この第四段階、それも他者による承認を満たすべくあくせくするというパターンだったのだとと思います。
具体的にいえば、地位、名声、注目、これってもう自我と社会性が目覚めると同時に学習せざるおえない。先進国のように普通に衣食が足りてしまうとどんどんこの欲求が過剰になっていくのだと思います。
で、こういう記号を具体的なものであらわすものが、消費を加速させてきたのでしょう。
消費の対象であるものも、どんどん本来の機能からはなれ、私たちがはりつける抽象的な価値によって、限りなく差別化されていく。
一説では今市場にでている製品の多くは、もっと長持ちさせることも丈夫にすることも可能なのだそうです。
でも適当な時点で壊れてくれないと次のものを買ってもらえない。いえ、こわれてなくとも、まだ十分使えても、
新しいものを買わなきゃという同町圧力が!!
貧乏がおそろしいのは別に本物の物質的欠乏というより、こういうレースについていけなくなることかもしれません。
経済格差がこれからまだしばらくは拡大し続けると思います。
ただ、21世紀の先進国でなら飢え死にすることはまずありません。お金のかかる見栄張り競争をパスすれば、そんなに多くのお金をかせがなくても暮らしていける。
そのかわり、別の形で、皆が皆承認欲求を強く意識する時代にはなってきてますね。
もはや、評価経済ぽくなってきているし。
ただ、一方で経済面の格差が広がる一方で、Netのおかげで、努力さえすれば、それなりにこれはみたせますよね。お金をかけずに
たとえば、ブログを毎日更新してより多くの人に読んでもらうとか!!(じぶんにまたかえってきた。)
お金をつかわずに、これを満たせるオプションて、ふえてますでしょう。
大事なのは、承認欲求というのは、そんなたいそうな数が相手出なくても、満たされえるということ。
それは、
私を見て から あなたと繋がりたい というパラダイムシフトであってほしい、と大姉は祈ってますよ。
第五段階 自己実現の欲求 (Self-actualization)
さて、自己実現というとき、たいてい自分探しを思い浮かべませんか?
これって、自己啓発でもありますよね。日本も本当にもう10年ぐらい前から、ブームですよね。やはり、一番最初のブレイクは勝間さんでしょうか。
わたしも、昔はオンラインの教材とかかったりしました。
アメリカは、自己啓発では、’先進国’??で、まあ、Lifecoachとかいうことが多い。
ただ最近は、Mindfulnessがのびてます。
瞑想やら、こう禅てきな意識を生きる講座とか盛んになってきていますが、私はかなりシニカルです。
瞑想はいいんです。
ただ、そういうところにわざわざお金を払っていく人たちは、家の掃除ひとつとっても人をやとってやらせていたりするので。
なんでもお金を払って逆に現実体験から疎外されているとでもいいましょうか。
私は仕事も子供の世話もしていて時間がなく、その分人を雇って家事を外注することにはまったく賛成なのです。(間接的な自己実現欲求というきします。)
ただその手のセミナーやワークショップにわざわざいってなにかすごい発見をしたきになろうとするのなりら、(りんごを時間をかけて味わった、すごい。なんて話を読むとさすがうんざりします。)
時間のゆるすときに、じぶんで掃除でもしたらどうでしょうか。禅寺のお坊さんの日課ですし。
最後に自己実現についてちょっと
と、お金を使うという側面からみると、まあ、こんなところですが、せっかくですから、自己実現について、今のところ自分なりに考えていることを最後にまとめてみます。
最初にマズローの自己実現と言うモデルを知った時は、結構いいなと思いました。
いまはちょっと違う。自分らしい自分として人生を送りたいと言う欲求はむしろ若いときより強くなったとおもいます。
でも、探して求めるというのではうまくいかないだろうなと思うのです。
こう少しピンボケのホログラムのような存在を自分のなかに抱えていてそれがときどき光ってある種の安心感、’ここでいいんですね’という確認をあたえてくれる。
そして私たちが死ぬ間際になって初めてそのホログラムがはっきり焦点を結ぶ。それが私にとっての自己実現のイメージです。
もうぜんぜんマズローが描いていた超人みたいな自己肯定力をもった自立する存在からは程遠い。
ただその’ホログラムが光るとき’を、もっとはっきりとした現象として説明する研究結果はじつはそれなりにあるのですね。
たとえば演奏家が神がかり状態になって演奏しているような精神状態。
あるいは熟練工が一心不乱に作業に集中している状態。
スポーツではこの状態にはいることをZoneに入ったなんていいます。
たとえば何かかなり難しいことを一生懸命勉強していて、ふと目の前の光景が変わって突然それまでどうしも分からなかったことが急に見通せるなんていうのも。
この、ホログラムが光る時間のことを、フローといいます。
このフローの研究は幸福の心理学の先鞭をつけた研究で、それまでどういうわけか異常心理学とかNegativeな心理状態に集中していた流れをかなり変えたそうです。
フロー的精神状態に入るかいなかにはいろいろ微妙な条件があります。
これはある種の限界じょうたいですから、その状態に入る直前までその人は限界とみなしていたものをほんの少しこえたところまで自分で持っていくことが必要とされます。
余り難しく考えなくても、自分で自分を鞭打つことにはそれなりの成果があるということです。
ただこれ、ひとにいくら強いられても出てくる精神状態ではありません。
それとフローと仏教てきな瞑想、あるいは私たちの日本文化に特有のいくつもの’道’もこのフローを生み出しやすいのだそうです。
ですから、お茶でも、お花でも、お香でも、弓道、剣道、柔道、どれでもフローが可能。
フローを目指すという意味で、何かを極める、そこにお金を使うのはまあ、自己実現にむけてお金を使っているということになるのかな。
でも、これって好きなことにつぎこむってことでしょ。
なんだか、マズローとかはじめたわりには、割と当たり前の結論でしたね。
ただ、こういうことって、結論だけわかっても何の役にも立ちません。やはり、したのだんかいから、自分のお金の使い方の検討してみるのは、結構自分が分かっていいと思いますよ。