昨日立花岳志さんの内情吐露Note Postについて書き、その最後で2017年の秋以来ずっとわだかまっていた一番下妹の死についてやはりここに書き留めておこうと思いました。Profileの番外編ともいうべき、極私的な内容ですので、ご了承ください。
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私には年下の妹が二人おり、真ん中がちょうど三つ下そして真ん中と一番下は年子でした。
子供の頃の思い出はあまり明るいものがありません。一番下の妹のことで一番よく覚えているのは赤ん坊の時に吹き出物が出来て大変だったことぐらいでしょうか。
私や真ん中の妹とは別の意味で、一番下の妹もかなりこじれた子供時代を過ごしたと思います。いつもいつも私の祖母にまるでミソッカスのように言われ続けていましたから。
その妹が最初に大きく変わったのは息子を出産した時でしょうか。両親にとっては初孫だったので結婚そのものは数年で壊れてしまいましたが、その後さらに現在の義弟と再婚し、なんだかんだといわば我が世の春を楽しんでいたと思います。
それでも父が生きていた頃はそれなりのバランスは取れていました。
父が思いがけなく早く逝き、とりあえずは父の共同経営者が会社を継いだもの、彼は定年近かったこともありしばらくして退職し、その後この一番下の妹の夫が継ぎました。
真ん中の妹の話によると、彼が社長になってから雇った社員の一人が、彼をやたら持ち上げそのぶん真ん中の妹貶めることを始めたのが、それまでのバランスが毀れていったきっかけだそうです。そして二人の妹たちの関係はどんどん悪化していきました
私の義弟に当たる人は、はっきり言って経営者としての能力もカリスマもやる気もなくそれでも自分たちの懐を潤すことだけはせっせと行っておりました。
この人が社長になって会社の資産は約1/3まで縮小しました。それでもまだ会社として存続して行けたのですから、今思うと私が思い描いていた以上に父は中小企業家としてかなりの成功者だったのだと今一人で苦労している自分としては感心してしまいますが。
確か2009年だったと思います。私はいい加減アメリカでのキャッシュフローがきつくなり、真ん中の妹に株を買ってもらえないかと相談するつもりである日電話したのです。でも様子がおかしい。
その時点で真ん中の妹から見て会社の状況はぎりぎりまで悪化していたのだと思います。それで結果的にその時から少しずつですが妹との相談に乗るようになりました。
やがてやっとの思いで全く値しない退職金を支払うことによってこの義弟に社長を辞めてもらい真ん中の妹社長に就任させました。がその後その後思いがけないことに、一番下の妹に既に3期に達している肺がんが見つかったのです。
彼女は会社を休みがちになり、その一方でせっかく義兄にやめてもらったのにも関わらず、何かと真ん中の妹の采配に、この病気の妹の口をかりてあれこれ文句をつけ続けたのです。少しずつですが真ん中の妹は疲れて行きました
そして私が監査役として就任する株主総会で、私と真ん中の妹は彼女の病気を口実に引退を一方的に勧告したのです。もちろん、これで私達二人と一番下の妹一家とは絶縁状態になりました。正直、あまり後味の良い決断ではありませんでした。でも、私はこの決断は公開していません。現実問題として、会社を支えていたのは真ん中の妹でしたから。
私の監査役就任が果たして認知症だった母にどのように伝わったのか、全くわかりませんが、 あの株主総会のあと1ヶ月も経たず、2015年4月春の朝、母はあっけなく逝きました。
すぐ近くに住んでいたのにも関わらず、一番下の妹は母の死に目にも駆けつけてきませんでした。私はFacetime腰に、何千マイルも離れたアメリカから、それでもカメラ越しに母に寄り添うことが叶だったのに。義弟だけは、出棺前にかなり深酒をした状態で泣きながら母の死に顔に対面しに来ました。
私が一番下の妹と最後に顔を合わせたのは母の告別式です。
そもそも彼女の 肺がんを発見したのは真ん中の妹です。 嫌がるのを無理強いして気胸検査に連れて行ったのは、最初に肺に影が見つかってから2年近く経っていたのです。
その後この会社がらみのごたごたが起こるまでは真ん中の妹が探した病院で化学療法などやっていたのですが、葬式の後しばらくしてそちらの病院での両方を止めてしまいました。これが2015年の夏でした。
それから先2017年の秋の初めまで、私たちは甥っ子から全ては大丈夫具合がいいということだけをただ聞かされていました。何しろ2015年の春に見かけた彼女はとても元気でしたので。私たちは完全に現実から目をそむけていたのだと思います。
そして、2017年の夏、日本に里帰りして、その後またアメリカに戻り忙しい日々が始まっていた9月真ん中の妹から電話がありました。
その時初めて私たちは真実を知ったのです
しかも連絡を取ってきたのは甥っ子ではなく、一番下の妹が真ん中の妹へ LINE で直に知らせてきたのです。だから私たちは実情を知ることができたの。
真ん中の妹は取るものもとりあえずお見舞いに行き、戻ってきて私にすぐ連絡を変えたのです。
妹の容態は完全に典型的ながん患者の末期でした。とても痩せ細っていたそうです。私も真ん中の妹も、父をはじめとして、ガンの患者さんが死期が近づくと本当に見違えるほど痩せてしまうのを見てきましたから。
妹はホスピスを探しているというふうに聞いたので、私は Web でできるだけ居心地の良さそうだホスピスをえんえんと探し続けたことを覚えてます。私は、無力感を感じるととにかくやたら情報を集めようとするのです。
その後、突然実家の7階で死にたいと言ってきました。それにはもちろん賛成でした。そもそもの一番下の妹と共同所有しているわけですし。そのようにすればいいと私も真ん中の妹も賛成したのです。
ただ、私が時々帰ってくるのと、住み込みのお手伝いさんが二人いるので荷物の置き場などもないことだし、すぐ近くにアパートを借りて、ね泊まりは3人ですればというような形で甥っ子と話を進めていったのです。
ところが義弟が突然アパートは借りない。3人で住み込むのでなくてはならないといいだしたのです。
荷物置き場すらないのに何を考えているのか全くわからず、何度も何度も交渉しましたがそこで膠着状態におちいってしまったのです。
それでも今振り返ると、とにかく一番下の妹が大事だから、とりあえずは来てもらってもいいということで話を進めるべきだったのです。細かいことはその後でもいいと。
私は結局彼女がどれほど死に近いところにいる、把握していなかったのです。
だからあの時優先順位を間違えました。
私がとにかく来てもらおうと、真ん中の妹に言えば彼女は必ずそうしたのですから。 一番下の妹が、実家で母と同じように最後の時を過ごせなかったのは、基本的に私の思慮不足のためです。
これをどうしてもここにはっきり書いておきたかった。
うして母と同じように最後は家で過ごさせてあげなかったのかと。
このことは、やはり間接的に妹の死期を早めたのではないかとも思っています。
あの9月のはじめにに真ん中の妹がお見舞いに行って、その後会うことないまま、ずーっと甥っ子経由のみで何度も何度もやり取りが続きました。そしてそれがふと途絶えたと思ったら、なんと火葬場からこの甥っ子は死を伝えてきたのです。
妹が死んだ経過というもの私を真ん中の妹まるで釈然としておりません死んだ場所は実家から地下鉄でほんのひと駅のところにある何と言うかいえんのような場所でした一応こじんまりした日ホスピスもどきらしいけどよくわからない
何しろ死にいたる経過というのが要領を得ない。病院から逃げるようにでて、そのあと実家から地下鉄で二駅のところにあるかなり小さな施設の仮病室のようなところにとりあえずおちついたらしい。そしてそこのお医者さんが彼女にモルヒネを打って、その後妹はとても元気になって食事も久しぶりにしっかり食べて眠ったのだそうです。なんとその病室に家族はつきそえず、妹の容態が急変してから呼ばれて、ほとんど死に目にも会えなかったと。
故人の遺志だということで、私たちはお骨に挨拶することすら許されませんでした。
確か、お位牌もなく散骨したそうです。
さらにそれから1年経って、あれほど家族以外は誰も呼ばないことになっていると言い続けたのに、実はそこに、限りなく義兄との関係が怪しげな妹の女ともだちがどうせきしていたことが暴露されました。
なんだか、もうひどい三文芝居みたい。情けない。
こんな状況を許してしまった自分の馬鹿さ加減が情けない。
だからこんな形で一番下の妹まるで このようにとってそして妹自身の式も早めて
義弟のことを考えると胃がギリギリしてきますが、さすが今はもうただ考えないようにしています。今大事なことは 私があの時最後の最後で間違った選択をしたことを心から認めて妹の冥福を祈ることなのでしょう。
ごめんね。H子ちゃん、Y子姉ちゃんが、おうちでもどってこられるようにしてあげられなくって。
あなたはムービーシリーズキャラクターの中でちびの日が一番好きだったね。私も京子さんの真似をして、ちびのミイのお人形、買ってアメリカに持ってきました。私はね。実はムーミンママが大好きなの知ってた。
なんでだろう、私達やっとの思いであの子供時代生き残ったのに、あなただけ先に死んじゃったのね。
ごめんね。