1984年、12月 日本脱出

今振り返ってみると、物質的にはずいぶんの貧乏は時代でした。さらに場所はOhioの田舎、日本食といえば、大きいスーパーに置いてあったお醤油ぐらい。

 

個人のパソコンなんてものはまだ復旧しておらず、信じられないぐらい何の楽しみもない時代でした。

 

さらに、学部を卒業する年の夏休みまで、車の免許も取ってなかったので、学期中に行けるとことといったら、大学が走らせていたバスぐらいでした。

 

私は、普通の大学生よりずーっと年が上だったので、寮ではルームメイトもいませんでした。特に一番最初の学期は、普通の寮が一杯で、ゲストハウスの一部を寮の代わりにあてがわれましたので、他の学生もあまりいませんでした。

 

さらに、英語はまだ片言かつ、相手の言っていることもあまりわからない。

 

とにかく、はなっから日本人の少ないところを選んだので、まあ泳げない子供をプールに放り込んでサバイブさせる、的厳しさでした。で、結果的に何に一番時間をかけたかというと、

 

 勉強です。

 

一番最初のSemesterに取ったクラスは今でも覚えています。

微積分 I (プレイスメントテストの結果)

化学

仏語初級 I

英語(留学生向け)II (プレイスメントテストの結果)

体育 (Ballet 初級 I)

 

何故か全クラス午後の授業で、本当は朝早い授業のほうが好みなのに留学して半年は夜型の生活が続きました。

とにかくまだ聞き取り能力が低かったので、自分に取って割と楽な科目を選んだ結果がこれです。

仏語が一番らくでした。アメリカ人はとにかく外国語苦手な人が多いし、私が行っていた大学は2流の州立大学だったし。

数学は、正直微積分に最初から入れられるとは思ってませんでしたが、やはりこれは英語力がなくてまったく問題なかったです。ぶっちゃけこのクラスではぶっちぎりの一番だったので、先生に数学専攻にしたらと言われ、アメリカだったのでためらいもなくそうしました。

 

今振り返ると、純粋数学とかちょっとやりすぎだったなあと思ってます。なにしろ学界の外でほとんど潰しも聞かないし。あとあとで具体的に分かってきましたが、やはり数学者として行きていくには少し年を取りすぎていましたから。

 

それと比べると、化学は予想より大変でした。日本語で知っている単語の英単語を拾うのがとにかく大変だったので。もう、しっかり予習してしのぎました。

 

で、一番つらかったのは英語。留学生用のクラスはIとIIがあり、IIに入れられてしまったのですが、基本英語でいろいろなEssay (一番一般てきなのは、5パラグラフ)を欠かされたのですが、とにかく

赤、赤、赤

 

先生は、インドからやってきた大学院生で、この人がもうものすごく細かくて死にました。まあ、留学生として誰もがくぐらなくてはならない関門という感じです。

 

 

夜遅く行くところもないので、楽しみはラウンジにあったTVを見ることと、なぜか図書室にあった日本語の書籍を読むことぐらいでした。

 

食事の状況もすごく、普通の寮と違って大したキッチンがなかったのです。で仕方なく学食で食べてましたが、これが

死ぬほどまずかった。

比較的食べられたのは、朝食だけで半熟の目玉焼きが好物になりました。ともかく大学構内での唯一のごちそうはWendy’s でしたから。

 

だからといってあまり自分の生活を改善しようとはあまり思わなかったです。なにしろ大学進学を放棄して、やっと稼げるようになって改めて学生生活を始めたので、親に経済的に依存している状態がものすごく嫌でした。

 

今考えると、途中でもっと上のレベルの大学にTransferすべきだったのですが、私はともかく早いところ学部を終えて、大学院に行きたかったのです。

 

忘れもしません、最初の冬Semesterで、私は一冊の本に出会ったのです。これがタイトル。

 

’Winning PHD Game’

 

さすが、Googleしてももう出てきません。私はここで”Game’という言葉が使われているのになにかすごくアメリカ的なものを感じて感動しました。

 

つまりHow to get PHDという代わりに、Winning PHD Gameなんですから。

 

内容的には、TA (Teaching Assistant)と RA (Research Assistant)の違いとか、どうやって奨学金を取るかとか。でも私にとって一番重要な情報は、大学院でTAやRAになれば、

授業料はただ

これでした。

私は父にすべて丸抱えにしてもらっているのが嫌で、できるだけ早く大学院に行きたいと思ってしまったのです。

 

で、今振り返ると学部時代は、割と要領よく単位をとってとにかく早く卒業したい。これでした。もっと上のレベルの大学に行きたいという欲望を、いつの間にが抑え込んでしまいました。

 

結果すべてを3年半にぶち込み、GPAは3.95で、優等生として表彰とか、あと最後の半年の授業料を免除されたりもしたましたが、本物の学力ということになると結構浅いものが多かったと今は思います。

 

ただ、唯一きちんと勉強しなかったのがGRE,しかも一回しか受けなかったのであまり大した成績ではありませんでした。

 

で、ともかくメリーランド州で最大の州立大学、University of Maryland, College Parkの大学院数学科に1988年秋進学しました。

 

 

 

 

 

 

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