今朝、プレジデントオンラインでこんな記事があった。

 

「自分以上の幸せは許せない」娘の結婚相手に注文を付ける毒親の本音

 

話そのものは今更私にとって目新しいものは何もない。

 

ただ、これを読んでいるうちに、自分の中にたまっていたものがなんだか溢れてきてしまいました。

 

私の子供時代、毒親に当たるのは両親ではなく、祖母だった。まあ今風に言うと過度な体罰を食いまくっていた、準虐待児みたいな育ち方をした。

 

ただ、私が中学に入学するのと並行して、この祖母は家族とは別に暮らすようになり、以前のような異常な緊張状態からは解放された。

 

その代わりというのも変だが、まあ長い間自覚していなかったけど、私は結局自分の実の家族と極端に縁が薄い人間になってしまった。

 

で、今回の日本行きがらみの妹とのやり取りで、正直私がいまだきちんと対応できていない何かに、改めて気づいてしまったのです。

 

私の場合、いまだ家族として素直に実感できるのは娘だけ。Bobに関しては夫というより、ほかにピンとくる表現がないので行ってしまうと、私にとっての扶養家族みたいな感じである。あ、それでも自分の実の家族よりはずっと家族です。

 

喧嘩したり、イラっとすることが多いけど、それでも、

 

かばいあうし、共闘する。

 

もちろん、露骨に’子は鎹い’で、こと娘がらみになるとなんだかんだと、結構お互いの親としての役割分担に納得している。

 

私は自分自身のことだと、やはり最終的には自分で決めるけど、娘が絡んでくると、結構まじめにBobの意見を聞き分ける。

 

娘のことは、発達障害ゆえの特殊性もふくめて私は彼女のことを親として愛するだけでなく、結構好きだったりする。

 

それに対して私の母親は、実家の極端な没落を除けば、もともとはきちんとしたお嬢さんだったのだと思う。でも祖母にいじめられ、私が祖母に育てられたことで、私は母に嫌われることになった。

 

母の場合、そこのほうではかなりまともなのだと思う。でも、祖母のせいで祖母が別居するようになってから、いじめというより

 

だいぶたってから振り返るとかなり意地悪だった。

 

私が中高と通っていたのは、いわゆるお嬢さん学校だったので、同級生は結構大切に育てられている子供たちが当たり前だと思う。

 

中高6年間通じて、一番つらかったのが制服とお弁当。

 

母はお弁当を作ってくれなかった。

 

キャラ弁というほどではないけど、友達のお弁当が羨ましかった。給食はなかったけど、菓子パンの販売所はあったので、かなりお世話になった。焼きそばパンと、チョコドーナツが好きだった。

 

で、結果私の頭の中では、’母は料理が下手’という風に長い間すりかわっていたっけ。

 

でも、お弁当以上に辛かったのは、制服のスカートと、体操服のトップ。

 

私は、中学時代から自分で洗濯機を使っていたけど、

 

アイロンがけが下手だった。

 

とにかく、体操服の洗濯を忘れると、一度汗をかいたものをまたごまかしながら切る羽目になる。

 

いえ、我が家は超富裕層ではないものの、すでにあの頃結構経済的には上がり調子だったし、どう言い訳しても、貧困ではない。

 

大体、貧困だったらあんな学校に行けないし。

 

さらに、制服のスカートがプリーツで、しかも冬服となるとかなり厚手の生地なので、

 

とにかくアイロンがけだけでプリーツを整えるのが大変。

 

でも、ずっと後で知ったのだけど、妹たちは、平然と制服をクリーニングに出していたし、体操服はまめに洗ってもらっていいた。いや枚数も多かったよね。

 

まあ、中高なんて、読書と勉強と妄想(あるいは空想)しかなかったよね。

 

このタイプのエピソードは、私が結婚して出戻って家族と同じビルに住むようになっても続く。

 

私は、同じビルにいたときでさえ、風邪で具合が悪くなった時に

 

看病どころかCheckしてもらったこともない。

 

祖母と大喧嘩したときも、祖母が全く理不尽であったのにもかかわらず、最初私が何の説明もしなかったら、いつの間にか祖母の理不尽な罵りがそのまま家族全員に受け入れられて愕然とした。

 

一人で外国に居つくことのできる人間なんて言うのは、それほど

 

家族との縁が濃くないのだと思う。

 

祖母とに関係に関しては、アメリカでリブートしたことによって基本かなり自分の再生ができてしまったと思う。

 

でも、この家族と’家族扱いしてもらえなかった’というこだわりが、いまだに私をのろっているなんて、かなり怖い。

 

と、振り返って見ると、娘が生まれたとき、丁度妹の愛犬がなくなったことと重なり、本当に家族のだれ一人として、娘に興味を持ってくれなかったことをいまだに覚えている。
ただもし、父が生きていたら父だけは、飛んできてくれたと思うけど。
結局、父が死んで、本当に日本の家族は私に対してわざわざ付き合おうという努力をやめた。もちろん、私も諦めた。
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それが、母の死の直前から、父の会社がらみでここを継いだ真ん中の妹にかかわるようになった。
ただ、今だぎくしゃくしている。
それで今回の、日本行きにかかわって、2週間の自主隔離プロセスに関して、ごちゃごちゃもめた。
結局そんなこんなで、私は日本に’こないで’来られるのはちょっと見たいな言い方されて、

過剰にきずついた。

 

ここ2-3週間の、落ち込みやら、生産性の低下のもとにあるのは、私の中にいまだにある’不幸感’だと気が付いたのです。

 

もう、いい加減にやめたい。どうすればいいのだろう。だからこの連載をはじめることにした。

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