そもそも、この連載を始めるきっかけになったは、2年穂と前に、Youtubeで見つけたAbyssという投資系の子供たちにあったことからでした。、私はこの連載を始めることになったのです。

この子供たちは、乱暴な言い方をしてしまうと、人生のド初期に、大金を手にしてしまった人たちなんです。

おもしろいことに、その結果として、彼らはYoutubeチャンネルを含み、いわばOnline Communityを始めているのですが、彼らに共通する感情というのが、ひとことでいって、

困惑している

 

なのですね。

この若き中・小金持ちさんたちはいわゆる’運のいい人たち’ということになります。

さらに、日本という国から希望や未来が消えて久しいま、アメリカ人などにくらべて日本人て大して物欲が強いわけではないのですが、いっぽうで、世の中でお金がないとやばいいう恐怖に満ちた味も素っ気もない考え方が、どんどん特に若い人たちに浸透しつつあります。

 

そもそも、若い頃というのは、自己肥大感と自己矮小感の間で揺れ動く時期ですから、

俺、金あってすげー

 

という気持ちと、

なんかお金あっても、できることって限られてねー?

 

という本音の間で揺れてます。

 

たとえば、日本の普通の女性はたぶん世界で一番、お金で動かないので、逆に若くて大金を持ってしまったひとを胡散臭く思います。

だいたい、腐女子でなくともいろいろな形で女の子も、男の子もやたらオタク化してるでしょう。

アメリカに住んでていても、特に若い人ほどお金が買える何かに対する興味がどんどんうすれている。

 

大体、お金を稼ぎたい、そして投資の若きグルっぽいひとたちも、その生活はというと、とにかく基本ミニマリストで無駄がきらい。

 

さて、’運’のお話でした。

 

信じられないかもしれませんが、経験的に言って

’運’は誰でも平等に訪れます。

 

ただ問題なのはまず自分に訪れている’運’に気づけるかどうか、さらに、

運を利用できるかどうか

 

私が感心したYoutubの動画の主人公Kさんですが、このひとはある意味で’運’がいい人の典型です。

それはちょうどわらしべ長者、あるいは彼の好きな映画’Yes Man’のように、なにか得たいのしれないものがやってきた場合、

先ずはそれを受け入れるたちのひとです。

 

さらに、このひとは基本

他人に耳を傾け、人とShareするひと

 

これは2チャンネルなどに耽溺してしまった人たちに比べて、

自分に向いてきた運に気づく能力を高めてくれます

 

これはまあ、大昔父が話してくれたことですが、

大きな運がついたときは、必ず周りにもふるまって厄を落とすべきだそうです。

このへんも多分Kさんはすごい。

さて、この人の場合、2年ちょっと前のお話なので、ちょっとした金額をつかむきっかけになったのは、

仮想通貨です。

 

彼が最初に仮想通貨に買いをいれたいきさつ、これが本当におもいきりがいい。まず、彼は仮想通貨の話を聞いて、何かひらめいたらしい。そしてそのあとすぐ、かれは昼夜働き詰めでなけなしの50万を作り、

 

それをためらいなくぶちこんだ。

 

私感動しました。一体何人の人がKeiさんと同じことをしますか?運がいいひとってこうなのです

思い切りのいい人は基本、いろいろ先々できると思います。

 

ただ、結局こういった思い切ったことができるのは、若くて失うものなどまだ何もない人の特権ではあります。でも、それだけでは運をつかめる人のイメージが限られるので、もう一つ実例を紹介します。

これ、今は亡くなってしまった父の話になります。

彼はほぼゼロから始めて、中小企業のオーナー社長になった人間です。私の父は、日本の高度成長が始まる少し前に、大学卒業後入った有名商社をやめて起業した人間です。まあ、この連載のタイトルにするくらい、起業をいうのは最終的に、最低プチ富裕層になるための鍵ではありますが。

父の父、私の祖父は基本鉄の丸棒の相場を張っている人でした。いわば、商品市場の相場師だったということです。

さて、父は私が生まれた家を担保に入れ、さらに主に祖母の知り合いなどから借金をして起業しましたが、Businessは2つ。

ひとつは彼の祖父と同じような建築用鉄棒のブローカー、もうひとつは、専属の下請けを雇っての建築会社の下請けとして仕事をもらう’鉄筋加工業’を付け加えました。

彼は、ブローカーとして相場を作るのが上手で、一度は逆に通産省から審査が入ったことすらあります。

もちろん、

ときは高度経済成長まっさかり、

彼の’運’の良さは、たとえば一番最初に開いた加工場が、その頃延長された環状線に引っかかったりしたことでもよく見えます。

ただ、彼は徐々に相場を諦め、代わりに本来はサブであったゼネコンとしての鉄筋加工業を拡大していきました。

借金をすべて返し、本社ビル(あのころ建ぺい率最大の7階建て)をたて、さらに埼玉、東京、千葉の三ヶ所に加工工場を設立するころには、業種セクターで日本のTop3と呼ばれるまでになりました。それが1970年代の半ばです。

ただし、その父は1986年にがんの告知を受け1994年に逝ってしまいましたが。

彼のある種の運の強さは、闘病生活が始まってからも続きました。この時代は実は日本のバルブ期とかさなるのですが、闘病していたこともあり、父はいわゆる投資話に全く手を出しませんでした。

 

この結果、同業者のなかにも本業以外で大損して破産したり、大幅に縮小したりしたところがずいぶんありましたが、

バブル崩壊後、父の会社はまったくむきずでしたっけ。

 

父が残してくれたものは、私そして私の娘がより豊かな生活を送れるための、もはや礎以上のもとになっています。

父が逝ってから、今の真ん中の妹の体制になるまで、父の残してくれた会社の経営権がらみでいろいろありましたが、今はなんだかんだと、妹と二人で助け合いながらやってます。

私にも妹にも、父のような大きな運と出会うチャンスみたいなものは、今となってはあったのかどうかわかりませんが、

こういう父をもったということは、

私そして家族の金運が良かったということになります。

 

そして、父の残してくれたものが、それは有形無形を含め、私と私の家族を日本の人口の1%しかない富裕層に含めてくれたわけです。

 

というわけで、この連載を始めましょう。

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