運を読むのが大好きだったなくなった父は、今振り返ってみると、かなり珍しい
Recreational Gamblerでした。
Recreational Gamblerというのは、基本自分の本業や、資産に影響を及ぼすことなく、ギャンブルを楽しめるひと、ということになります。決して多くはない。たいていの人は、ギャンブルにはまると、飲み込まれてしまうので。
世の中には、燃やすほどの資産を背負わされてしまった人々がいます。こういう人たちのやるギャンブルはほとんどただの退屈しのぎ。ラスベガスで、実際に姿を見ることはありませんが、昔のマカオなどでは父がこういうレベルの日本人に出会った話をしてくれましたっけ。
逆に、世の中にはプロのギャンブラーもいます。どちらかというと違法カジノや裏の世界に絡んでいる人が多いようです。唯一表と裏の黄昏の世界に浮遊するプロを見ることが出来るのは、プロ雀士でしょうか。そして、
ごく普通の人は、ごく普通の射幸心を持っています。
私が見る限りでは2レベルあって、宝くじをせっせと買う貧困層とは言えないまでも、一生うだつの上がらないタイプ。
そして2番めが、ちょっと自由になるお金をもち、さらにちょっとばかり自分の’運’に自身のある中小事業主タイプ。
本来、父はこの最後のタイプでもおかしくなかったのですが、彼のギャンブル好きは、ちょっとおかしな言い方ですが、
純粋でした。
ちなみに私はいわゆるギャンブルに、本当に心が一ミリも揺れないタイプです。それ以外では結構いろいろな形や、レベルでかなり際どいリスクを取ってきた人生ではないかと思っていますが。
今回は、ギャンブル論の意味をこめて、子供の頃から見てきた父の’ギャンブルの愉しみ’について話をしてみたいと思います。
私の実家は、JR総武線錦糸町駅から歩いても20分ぐらいのところにあります。昭和の錦糸町は、あまり柄の良い場所ではなく(まあ今でもエリアによっては怖いところがあります。)、何より場外馬券売り場があることでも知られていました。
今でこそ場外馬券売り場は、こんな風におしゃれにイメージチェンジしましたが、あの頃の思い出の中の情景は、子供心に不穏で忌むべき雰囲気をたたえていました。
それでも、私が父のギャンブルに昂じる姿を初めて経験したのは、
競馬です。
たまに万馬券が当たると、その晩はどこか美味しいものを後で食べに連れて行ってくれます。
千円の連勝複式が、100倍以上になるので、昭和のお金で10万を超えるわけです。1968年で、大卒の初任給が3万ちょっとの頃の話です。
周りが皆薄汚れて見える場外馬券売り場で、父だけエネルギーいっぱいに見えたのを覚えています。
父はあの頃から、ギャンブルで大当たりをすると自分のことに使うことはまずなく、私達を食事に連れ出したり、ちょっとお小遣いをくれたり、あと母や祖母にも気前よくしていた記憶があります。
父の会社は、ゼネコンの下請けでそのころは加工場に隣接して寮がありました。今でこそずいぶん変わりましたが、あの頃の職人さんたちは月給が入るとかなりの部分を賭け事に使ってしまいました。競馬、競輪、あるいはうちわでの私のよく知らない賭け事。
父が一度ふと漏らしたことがあります。
勝ったら、必ず周りに分けないといけない。そうしないと悪いことが起きる。
一人勝ちした挙げ句、翌日ころっと死んだり、事故で大怪我をしたりすることを単なる偶然よりずっと頻繁に見てきたと、父は私にあの頃教えてくれました。
もともと、日本で建築業界ほど、験を担ぐところはないでしょう。地鎮祭なしでビルの工事をはじめることは平成の終わりの今でさえ、まずありません。
普段、あまりこの手のことを気にはしませんが、私もたまにどうでも良いことで運が良すぎると逆にあとが怖いと思ってしまう様になりました。
さて、父の会社が高度成長期とともに順調に拡大し、7階建ての本社ビルも出来上がる頃、父は単身初めてのNew Yorkへと向かいました、
持ち前のサバイバルスキルで、まだあの頃日本国内では高すぎた香水やら、日本人が珍しかったTiffany 本店で、私達3人と母のための指輪を買ったあと(今となっては、自分の指輪と母の指輪が私のてもとにあります。)、彼はツアーの自由時間を利用して、一人グレイハウンドに乗り、生まれて初めて
アメリカ東海岸最大のカジノタウン、Atlantic Cityを訪れたのです。
訪れたカジノはCeaser’s Palace.彼が選んだゲームはBlack Jack. どのくらいのレートで遊んでいたのかは知りませんが、一勝負終えリラックスしようかというところで、VIP候補を探すスタッフに声をかけられたそうです。
ここで父はアメリカのカジノ特有の、コンプの世界について学ぶのです。その後、食事そしてショウ、更に部屋までただにしてくれたそうであの頃はまだナイーブに喜んでました。
New York帰国後から、父のマカオ通いが始まります。多いときでは年に10回ぐらい行っていました。だいたい隔月平均でした。一時はマカオにマンションを所有していたこともあります。
さらに、ここがいかにも父らしいのですが、このレギュラーなマカオ通いが始まるとともに、周りが恩恵を受けるのです。
父は大きく勝つたびに、お土産が高価になります。大きく勝たなくとも、行くたびにいいものが見つかる店、美味しいレストランなどの知識が増えます。さらに、その知識をなんだかんだと社員やら知人のための頼まれごとに使いもします。もちろん一番の恩恵を受けるのは家族である私達でした。
私は基本宝石はあまり興味がありません。中でもダイヤモンドはほとんど嫌いなぐらい。ただ父がある時買ってきてくれたこの指輪だけは、とても気に入っています。何よりデザインがむしろコスチュームジュエリー的で、宝石をよく知らない人はクリスタルと間違えてくれます。
父は本当に自分のために何かを買うことに興味のない人でした。それなりに成功した人間として、普通に高価なもの持ってましたが、それらは基本母が勧めたものばかりです。
次の転機は、私のアメリカ留学
1984年暮れに日本を出発した後、最初に父と母が私を訪れてくれたのは翌年の夏休みでした。その年3人でNew York Cityと周辺の旅行の後、私達は父に連れられてAtlantic Cityを訪れたのです。これで母もすっかりアメリカのカジノが気に入ったようでした。
マカオに行っていた頃は、Black Jackに加えて、Baccaratを始めてましたが、アメリカのカジノで本格的にPlay するようになってからは、基本Baccarat一本でした。
カジノのGameのなかでは、
基本Baccaratが一番カジノ側の上前が少ないのです。
このゲームは基本客同士で戦うものですから。ただ、一つのゲームが短く、例えばBlackJackに比べてもずっと掛け金の動きが早い。
従って、最低のテーブルでも他のゲームに比べて、遊ぶのに必要な掛け金が多いことでも知られています。
少しずつレートをあげていった結果、父が落ち着いたテーブルのレベルは、最大チップが$5,000でした。一般の人が観戦することのできる一番高いテーブルで、これ以上になるとプライベートなVIPエリアに移されます。
この$5000チップはチョコレートにそっくりな色をしていて、実際テーブルでもチョコレートと呼ばれていると父が一度教えてくれました。
このころまでには、父は完全にコンプを利用しきってました。もちろんWhaleと言われる、アラブや最近なら中国の富豪レベルの人達とはまるでレベルが違いますが。(ちなみに白人の富豪は基本ヨーロッパのカジノにってしまいます。)
戦後の日本から出発して’成功’したと感じられるサービスが、すべてカジノ側のComplementaryとなりましたから、正直あの頃の日本人に取っては結構インパクトがありました。(もちろん、毎回前もって、カジノに見せ金を送金します。大体父のレベルで、その頃の日本円で2000万ぐらいでした。)
たとえば、
父と母のFirst Class Ticket
リムジンの送迎(Atlantic Cityのときは、Washington DCのダラス空港まで迎えに来てくれました。)
すべての食事とEntertainment, (別枠で、並ばないで入場したり、普通枠の売り切れのチケットを取ってもらえたりします。)
Sweet Room Accomodation
後、何度かはカジノで年を越しました。満室なのでいつもより部屋のサイズが少し小さかったことを除くと相変わらず、VIP待遇。後この手のPartyには、日本の芸能人をよく見かけました。
ちなみに、私は休みと重なるときは必ず、Las VegasかAtlantic Cityを訪れてましたっけ。もちろん私も父の相伴に預かって、カジノにいる間は全てただ。私が一番楽しみにしていたのは夜遅くCeaser’s PalaceのCoffee Shopのメニューに何故か載っていた、
フカヒレそばを食べることでした。
まあ、私の心に深く残る楽しみって、結構食べ物絡みが多い。
定期的にアメリカのカジノを訪れるようになってから、父はずいぶんカジノに行ってみたいという日本人の知人の世話をしていました。ときに私が使われることもありましたが、それはむしろ役に立っている感じがして嫌じゃなかった。
ただ、父と違い、そういう友人知人は、実に全員結果的に大損をして、遅かれ早かれカジノ行きをやめてましたっけ。
心から楽しそうにBaccaratをPlay し続けていたのは父と彼といつも一緒だった母だけです。
そのうちに、父が逝く4年ほど前に
母が、オーストラリアのカジノでBaccarat大会の優勝。(賞金は約1000万円)
その二年後、死の2年ほど前に、
今度は父がCeaser’s PalaceのBaccarat大会で優勝しました。(賞金は約2000万円)
最後に父とともにLas Vegasで過ごしたのは、1993年の夏。
久しぶりにあった父が見る影もなく痩せているのを見て、私は初めて死期が迫っていることに気づき普通を装うのに努力を要したことを覚えています。
父は1994年の2月に逝きましたが、
その死のほんの一ヶ月前に、もう一度Las Vegasに訪れています。
父の死の後、私は母に言ってCeaser’s Palaceからチョコレートチップを取り寄せてもらいました。たとえただのプラスチックのコインでも、カジノからくる本物である以上$5,000相当の日本円を支払いましたが。
最後までカジノが大好きだった父のお棺に私達はそのチップを入れました。
父の遺骨には綺麗なピンクとチョコレート色の斑点がところどころ浮かんでましたっけ
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父の死後、母は二度Las Vegasを訪れています。一度目は、まるでカジノ版の賑やかのお通夜のようで、家族全員が集まりました。その時、母は安定していてまるでまだ父が生きていたかのようにプレイしていたのではないでしょうか。
そしてその翌年、私はTexasのとある大学でPost Docについていたのです。母がLas Vegasから帰りによることになっていたのでとても楽しみにしていました。
が、数日後母からではなく、日本語が話せる二世のVIP担当の女性から電話があり、母が全額(多分1000万ぐらいだと思います。)摺ってしまったのでこちらには寄れないとのこと。
電話に出ようともしない母が本当に腹立たしく、別に滞在中のことぐらい面倒を見られると何度も言ったのですがだめでした。
あの時は腹が立ちましたが、今はなんとなく母の気持ちがわかるのです。母はつくづく父の不在を意識してとてもつらかったのでしょう。
いつも仲がいいわけではありませんでしたが、アメリカのカジノに定期的に遊びに行くようになってからは、父と母の関係はずいぶんと安定していました。母にとっては父の闘病で世話をすることも、一つの生きがいだったのでしょう。
カジノに二人で仲良くプレイしていた頃、時々大きく勝つのは母のほうが多かったのだそうです。ただ、父は
本当に、淡々と損切りすることができました。
たったひとりでカジノに行った母の横で、頃合いを見て引き上げ時を促す父はもういなくなってしまっていた。
その母も2015年に逝きました。
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あなたはギャンブルが好きな質ですか?
では、勝った時どんな行動を取りますか?
そして負けが続き始め、運が逃げていったように感じたら、あまり無理をせずに損切りができますか?
逆に、ギャンブル以外では、お金を大事にしていますか?
(父は、日本でも外国でもとにかく取れるものはすべて領収書をとってましたし、さらに高価なものでも平然と値切り交渉しました。私は一度ビバリーヒルズのTiffanyで母の指輪の値切り交渉をさせられてげっそりしたことがありますが、もっと驚いたのは実際店側が消費税分の値引きに応じたことです。)
最後に後もう一言、宝くじとパチンコだけはやめたほうがいいですよ。あまりに客側の歩が悪いので。