一体なんでこんなキャラが出来上がったのか、もしかして興味持っていただけましたかしら。
そんなあなたのご期待にそうべく、すでにかなり長くなったしまった私のBack Story,ここにProfileとしてまとめてみました。
なにせ、私から見ると子供みたいなほかのブロガーさんたちに比べると、何しろ長く生きておりますのでご了承くださいね。
幼少期、中学入学まで
私が生まれたのは、厳密にはいまの京成西船橋駅に近い、丘の上の大きな庭のある家でした。
父も母も東京生まれ、妹たち二人は都心の病院で生まれたし、生まれて間もなく江東区深川住吉という東京の下町に引っ越してしまったので、つい面倒くさく東京生まれといってしまうことが多いのですが。
幼稚園も、小学校は近くの公立、よく考えてみるとうちもそれほど裕福ではなかったのですが、周りが皆貧しかったので、結構うちは周りよりちょっと暮らし向きいいじゃんと内心思っているませがきでした。
育ち方はあまりふつうではなく、私一人だけ祖母に育てられました。
住吉の家には最初母屋と離れがあり、私と祖母だけが母屋で暮らし、小さな妹二人と両親は離れで4人一緒に暮らしていました。
それが普通のパターンになったのは確か私が小学校4年生ぐらいの時。離れが2階建ての小さいながら新しい家に建て替えられ、やっと3人姉妹一緒に暮らせるようになりました。
ともかく、私はいわば祖母のペットで、お勉強のできる一番出来のいい娘。祖母の友達付き合いのイベントにはそのまま連れていかれることが多かった。だから、私は自分の祖母にあたる年代のすきなものについての余計な情報が結構あった。
勉強以上に、祖母が熱を入れていたのは、私の日本舞踊のおけいこでした。住吉から新大橋を渡って浜町にある先生のうちにお稽古に通いました。
どういうわけか、私の先生は藤間流のなかでは格式の高いひとで、家元である2代目尾上松緑さんのむすめさん、文楽の名門の娘さん、元池田総理のむすめさんとか一緒にならってました。
ハイライトは2年おきのの発表会で、いわゆる発表会のレベルではなく、なんと新橋演舞場で開催されました。私が参加したのは2回3年生と5年生の時。
今考えると子供って怖い。なんであんなことできたのだろう。
実は後から聞いた話ですが、私の踊りの先生は私をなんと舞踊家にしたかったらしいのです。それはともかく、この先生のお弟子さんのひとりに菊寿郎さんという名取さんがいました。彼は男性ですが、女性の踊りを踊ると、ほかの女弟子さんたちより、ずーっと魅力的で姿がきれいなのです。
あれが私のいわば腐女子原体験だったと思います。
一方、お勉強は得意だった私に、両親というより祖母の期待は高まり、小学5年生になった時点から、毎週日曜日は進学教室に通わされました。
さらに、6年生になると、これに加えて、どこかほかの小学校教師のひとが、家庭教師としてやってきました。
私が覚えているのは、受験用の算数だけはおもしろかった、それぐらいでしょうか。
私が結果的に中学受験したのは2校のみ、お茶の水女子大付属と四谷の由緒あるミッションスクールF葉。
結果的にF葉に入学。
私のF葉の第一印象は、’衛生室が凄く素敵’これなんです。生徒用のベッドがいくつかあったのですが、そのすべてにピンクのベッドカバーがかかっていてそれが、昭和の少女であった私には、とてもメルヘンチックに映ったのでした。
6年間のF葉時代ー学校は閉じられてサンクチュアリみたいでした。
F葉は、中学でクラスがちょうど倍になります。つまり私のような’外からのひと’がドット入ってきてお嬢さん学校の自家中毒化を防ぐらしい。
中からのひとには、本当にお嬢さんとしか言いようのなかったひともいたし、あ、金持ちの子とか言うのもいました。まあ全般にあまり乱暴な言葉づかいはしなかったです。
ところで、これがF葉について一番知られていないことの一つですが、基本学校側は極力おのおのの家族のまあ’格差’が校内に持ち込まれないようにものすごく気を使うのです。
で、コレがどういう効果を生むかというと、生徒たちは気の合う合わない、好き嫌いは別にしてこのタイプのお嬢さん学校にしてはめずらしく親の影響力が少ないままに、まあ共存していきますね。
F葉などとくらべて、逆の極端な例はたぶん慶応とかでしょう。
さらに、私個人にとってとにかく祖母が学校に関わる機会がまったくなくなった。
そして、基本いじめはありません。
後もうひとつ、女子校って基本、生徒は皆結構女らしくないことが多いのですが、私の知る限りやはりさっぱりとしたひとが多かったです。
この辺の感じをもっとお知りになりたかったら、オススメのは本があります。なんと三浦しおんさんと中村うさぎさんの対談。あ、ふたりとも女子校育ちで、さらに三浦さんはなんと横浜のF葉出身です。(ちなみに、F葉ってチェーン展開してます。田園調布、静岡、後九州あたりに姉妹校あったと思います。)
私は基本、変人でした。中1中2は、あまり勉強しませんでした。だから成績はほぼ真ん中あたり。私は入試の成績が基本7,8位で、さらに算数が一番だったらしい。ちょうどこの頃の担任がが数学の先生だったので、ずいぶんがっかりされました。
でもまあ、中3から突然もう一度数学に目覚めましたが。図書室で見つけた数の話という本があって、そこにトポロジー(位相幾何学)の話が乗っていて恋に落ちました。
わあ、この本古本で手に入るんだ。懐かしい。トポロジーではなく、ただのユークリッド幾何でしたが、中3の授業で遭遇して、はじめて’明快High’ (頭の中で、スッキリとした構造がみえるかんじです。)を経験しましたっけ。これでまた数学がすきになったのです。
さて、数学は別格として、ただ英語だけはしつこく勉強しました。
中1の一年間、中からのひとと外からのひとは英語の授業を別々に受け、中2からは一緒です。中からのひとは小学校6年間一応英語の勉強をしているので。
さて、ナニカしたいと思ったらしい祖母が、英語の家庭教師をつけてくれましたが、このひとがひどかった。
このひとは体罰主義で、主に動詞の活用などの暗証を間違えるとその度に、
頭をなぐるのです。
しかも、最初はボール紙をまとめたものだったので音の割に痛くなかったのですが、とちゅうから、
木の棒になりました。その木の棒で殴られたのです。
まあ、祖母は私に対してとにかく幼児の頃から暴力をふるい続けてきたので、コレが当たり前だと思っていたのでしょうね。本当に痛かったです。何故あれが許されたのでしょう。今思うと不思議。自分でぶつチャンスがなくなったから誰かに体罰を加えさせたいと思ったのかしら。
効果はあったのか、なかったのがわかりません。大体自分でも英語の勉強だけは好きだったから、嬉々として英語の勉強をし、その関連で英語の歌のLPを買ってもらうようになったし。
ともあれ、だんだんビジネスが上向きになってきた父は、中2の夏休みに私をサンフランシスコにいる商社マンの友人宅にHome Stayさせてくれました。
F葉の夏休みは公立より2週間長かったので、滞在期間はちょうど6週間。後半のうち2週間はさらに、日本人のホームステイのホストなれしている、アメリカ人のきれいなおばあさんの家にひとりで滞在しました。
さて、私がその後10年以上立って日本を去ったのには、完全にこの時学習したことが根っこにあるのだと思います。
私が学んだ、’アメリカでは’とは
- 私をほっておいてくれる。
- 好きな格好ができる。
- 誰もぶたない、
- 日本のことを思えばサバイバルはそんなに怖くない。
- 外国語は片言でもどうにかなる。
こんな感じです。いまは、私にとって日本も外国になってしまったからより生きやすくなった感じですが。
さて、中高合わせて、一番の思い出はなんと言っても文化祭でした。F葉はあの頃文化祭が一年おきだったので逆に気合がはいってました。
部活からの参加とクラス参加と両方が多かったのでよく考えると凄いエネルギーでした。
中3の時のクラスのテーマが環境汚染でしたので、レイチェル・カーソンの沈黙の春とか読んで、今の元アメリカ副大統領のゴアみたいなことを何十年も前に色々まとめて調べ発表しましたっけ。まだ、日本の4大公害病の訴訟が起こる前でした。
そして高2のときは、生徒会役員の一人で、とにかく文化祭開催がらみで色々新しいことを通し、やり、さらにあのときは部活が化学部だったので、発泡スチロールのたまに色を付けていくつも分子模型作ってましたッけ。
コレがすごく評判が良くて、入場券を手に入れてきた某受験校の男子高校生がすごく褒めてくれてすごく嬉しかった。
後、あの頃はとにかく下級生にもてました。私は色々と新しいことを試すのがすきなたちなので、きっと話しやすかったのでしょう。
で、後夜祭が終わった時、何かが私の中で燃え尽きました。
一番辛かった高3から始まるあの時期、その背景の分析です。
高2の文化祭の後、私はいまでいう燃え尽き状態に陥りましが。まわりは逆に受験に向けてもはや思い残すとこなく集中できるというモードに突入していきました。
私とその時点での受験能力は、まあ理二だったら受かりそうな感じでした。何しろ化学と英語の偏差値がかなり高かったので。特に化学は駿台の模試で77ぐらいいってましたから。
私のその頃の学習能力というのは、基本的に受験向きではありませんでした。英語力でさえ、絶対的な力が高いだけで、変な難題が得意だったわけではありません。
化学が得意だったのは、化学の計算問題と有機化学が極端に得意ですきだったからです。受験数学よりもずっとスッキリして明快だと感じてました。
受験数学に苦手感があったのは、私はパズルというものがあまり得意でないからです。たとえばパラメータを使用すると解ける問題とか。まず解こうと思う前に、なんなんだこのパラメータは、とか引っかかってします。
まあ、後日振り返ってみると、パラメータは多様体のローカルマップだし、有機化学の構造は有限代数構造のとてもきれいな実世界例だったりするわけで、私が本来数学に惹かれた人間であったことと矛盾しないことがわかりましたが。
ともかく、私の場合上智大学の化学科なら推薦でいける程度の成績でした。数学科でないのは、突出して成績が良かったのは先にあげた二課目でしたから。
あの頃は化学の先生にもう徹底的に甘やかされいたので、化学準備室に出入り自由でした。あそこにはとにかく普通の生活では手に入れられないような色とりどりの劇薬があってそれを見ながら、実は’爆弾の作り方’を夢想してました。
ニトログリセリンを作るのは、化学式的にはかなり簡単です。ただものすごく不安定なので、つまり手足の一本や二本なくしてもおかしくないぐらい危険なのだそうです。
で、これは流石に却下、でもそのかわりクロムのテルミット反応は校庭の片隅でやらせてもらいました。これ化学実験好きの子どもたちの定番人気実験です。
あいにく、あの時点で祖母は’上智大学への推薦入学’というかなり安寧な未来を私に一言の相談もなく切り、とにかく国公立の薬学部あたりを受けるように強制されました。
又しっかり今度は現役東大生の家庭教師とかつけてくれて。はっきり言って受験勉強の足しには全くならなかった。彼の専攻が原子物理だったので、ひたすら物理の教科書の予習ばかりしてました。
さて、この時期に読んだたった二冊の本が、私の内的世界を更に拗らせて生きます。二冊ともまあクラッシックで、翻訳もの
ボーボワール ’第二の性’
タイミングも今思うと悪かった。あの外の世界のMale Chauvinismから隔離されていた中高時代が終わりに差し掛かっていた時に読んだのですから。自分の意志とは関係なく、女として扱われてしまう未来への恐怖。それがこの本を読んだ本当の最終的な感想だと今は思います。
そしてもうひとつは、フロイトの’精神分析入門’
昔はWikiとかありませんから、なんの俯瞰的知識もなく、まるごと読んでしまうのですね。フロイトが始めた精神分析は、いわば無意識、そして潜在意識の存在を明らかにした点でなによりもGround Breakingではあります。
ただし、実際の分析内容に関しては特に女性患者の場合、すべてを’性的抑圧’の一言で片付けた乱暴さと、あまりに明白な’男根至上主義’のため、あのころの私のような女の子にとって非常に危険なものでした。
私は肉体の成熟に伴う内発的性欲を感じる前に、まだほとんど存在していなかった性欲を抑圧している性的偽善主義者だと、自分を勝手に決めつけてしまったのですね。
で、時代も悪かった。
いわゆる60年代後半の学生運動が敗退した後、’性の開放’ ’Sexual Revolution’ と言うなのある種爛熟したAttitudeがひろがっていきましたから。
でも、あの’Sexual Revolution’は、
基本男がやりたい放題やるだけのものでした。
この文脈を理解していないと、何故’Feminism’が台頭してきたのかが分かりません。
だからこそ、私は私の実感をサポートしてくれる言説を持たず、自分で自分の魂を少しずつ殺していくような行動に突入していったのです。
私は祖母と言う毒親に育てられ、決定的に自己肯定感が欠落したまま、それでも中高は比較的安寧の時を過ごしました。そしてそこから追放される時期が迫り、自分の欠落を埋める強い観念的なものを欲したわけです。
さらに私の場合、変に’考えすぎる’エネルギーが過剰で、それが自身の観念主義的傾向に拍車を欠けました。
つまり実感や体感の欠けた’百鬼丸’の誕生です。
そして毒親を持つと、大人というものが基本信用できなくなります。
ほんのすこしだけいた私にとって心地よい大人とは、学校でちょっと風変わりな優等生の私しか知らない大人だけでした。
母は基本遠すぎ、後私から見るとあまりに女性的に過ぎました。父は仕事で不在。もちろん最近のTLのようにイケメンの家庭教師というOptionはなく、すべては高3の5月に見た一本の映画を皮切りに、
私はそれまでの自分を破壊すべく行動を開始します。
子供時代から一気に墜落、そして這い上がってくるまで
あの頃のことを思い出すと耳に響いてくる一つの曲があります。
crosby stills nash and young の teach your children
この曲を聞いたのは、高3の5月に見た’小さな恋のメロディ’というイギリス映画ででした。この曲以外は、ほぼすべてBee Geesのヒット曲が散りばめられており、上質のMusic Video的なのりの良さと 初々しい叙情が同居していた稀有な映画でした。
いまは、Youtubeで見ることができます。私は近くの駅前の映画館でしたから、リリースからは数年たってましたが。
お話は単純です。Boy meets girl.イギリスのGrammer Schoolで二人が恋に落ち最後に駆け落ちしていきます。
それは大人の世界そして秩序への決別であり、あの時代の空気を夢のような希望に満ちたものとして映し出していました。
二人でトロッコを交互に漕ぎながらちいさくなっていくラストシーンに流れていたのがこの曲だったのです。
高2の文化祭の後、ひとりとにかく鬱屈していた私はそこで突然思ったのです。死ぬくらいなら、
そうだ、家をでて、ヒッチハイクでどこか遠くにいこう。
行き先の方は、まあ時代的に少し左翼かぶれだったので、確かアサヒグラフというグラビア雑誌に載っていた、青森県の三沢基地の近くにある反戦喫茶アウルと決めました。
たしか京浜東北線で、春日部ぐらいまででて、そこから国道に出ました。全部で4台乗り継いで八戸駅でおろしてもらい、そこから三沢までは電車。
アウルについたのは朝でした。店主のひとは良心的左翼で、私をかなり暖かく迎えてはくれましたが、最終的に家に戻るように説得してくれたのも彼でした。
八戸駅から三沢までは、路線沿いに花が咲いてとても綺麗でした。
でも、断崖のてっぺんからの景色はいつだって綺麗です。
三沢で、私はメガネをかけていたことと、ひげをはやしていたこと以外なにもおぼえていない男と寝ました。
それまで、男の子とさえ付き合ったこともないのに。
これから先、まあ変人天才作家と今はカテゴライズされがちな、橋本治さんと出会うまでの出来事は、今は箇条書きだけします。
正直あまり書きたくない反面、こうして箇条書きにすれば私がかなり多様な痛みを経験しているということが伝わると思うので、若い方の辛さに共鳴する能力はあるということをわかっていただきたいので。
1,もう一度家でしたけど、一緒にいた友人から足がついて連れ戻されたこと。
2,初めてのBF
3,BFに再々度の家出を阻止されて、その翌日最初の自殺未遂、左手首を深く切り、しばらく口を聞かなかったので、精神科に入院させられる。
4,一度目の結婚
5,結婚中、オジサンそして同年代の男と行きがかりで寝る。あ、2回強姦された。たった一人をのぞいてすべて、Free Sexの名の下の拗れた肉体関係、冷感症状態が続く。毎年春先になると、自傷行為が講じてさらに数回自殺未遂、右手の手首も切る。左手ほど深くはなかった。後は精神科でもらった薬をためて使った。
6,一番目の夫たえ切れずに離婚。
7,夫の後、二人目のBFと付き合っているときに、H本さんにあう。
あのころおじさんたちに認めてもらうのは諦めてましたが、唯一の心の拠り所が少女漫画でした。私は大島弓子が大好きで、後山岸凉子と萩尾望都も大好きでした。ともかく本と少女漫画雑誌に一番お金を使っていた時代です。まあいまも、BL漫画を始めとしてRentaで散財してますから、あんまり進歩していないとも言えます。
ちなみに、最悪今年の終わりまでには私なりに落とし前をつけたいので次のタイトルの11回連載をします。’世界を変えた昭和の少女漫画10選’
さて、離婚後、漫画評論誌パフというミニコミに近い本に縁ができ、たしかそこからの紹介で橋本さんにあいました。渋谷でした。
まあ、あの時一体何本タバコを吸ったのだろう。(30歳で禁煙)
とにかくもう生まれて初めて自分の言葉が通じるひとに会えたと思い、何度か場所をかえ気がついたらも夜中の3時を回っていたと思います。と彼が突然言ったのです。
俺ゲイなんだよね。
そうか、此のひととは寝なくていいんだ。これが私の最初の反応です。あとでもう少し親しくなってから彼には’はじめて怖くない女にあった。’とよくわからないコメントをされました。あと、百鬼丸だと言ってくれたのも彼でしたっけ。
かれは、基本サイボーグ009にでてくる、天才赤ちゃん001みたいなひとで、まあ喧嘩別れしましたが、彼に出会ったおかげではっきりしたこととがいくつかあり、それは私に少しづつ生きたいという欲望を生み出していきました。
1,寝たくない男と寝なくていい。
2,少女漫画は実はすごいメディアだ。(つながり関連で、大島先生と会えたことが多分ファンとしての一番のハイライト。)
3,馬鹿だなと思ったら、多分相手は本当にばかだ。
4、オジサンは無自覚の塊で気持ち悪い。
橋本さんと出会った時に付き合っていたBFを最後として、私はその後一度も自分より年上の男を付き合ってません。私が年をとっても、相手の年はあまり上がらなかったりするので、はははどんどん年の差が開きましたっけ。
アメリカではいまが二度目の結婚ですが、二人とも15歳ぐらい年下です。
それはともかく、H本さんと出会った後さらにつながりのチェーンがあり、その後アメリカ行きを決める日までは、フリーのライターとして仕事をしてました。
ただ、ライターといっても’変身’を主にやるスタイリストもずいぶんやりましたっけ。まあ、昔から気ばかり若いので、主な雑誌はJK雑誌の、今はなきGals Lifeとすっかり今は様変わりしてしまったPopteenでした。
GalsLifeでやった仕事のひとつが、結果的に自分のライターとしての将来に疑問を持つきっかけとなりました。
それは確か5Pageぐらいの、カラーグラビア構成でした。テーマは中退、タイトルも中退写真。具体的な内容も被写体探しも、諸々手配も私がします。後、もちろんキャプションも。
これ、反響も編集さんの反応もよかったのですが、私はつくづく自分の仕事がいやになりました。被写体のうちの一人はまあヤンキー上がりで、ともかく今の写真をとりそのあとこちらで借りてきた高校生の制服を来てもらったのですが、
制服を着せられた彼女が泣き出してしまいました。
彼女は私に、卒業写真の代わりになってよかったスッキリしたといってくれましたが、カメラマンさんはいい写真が取れたと喜んでいたのです。
さて、だんだん元気になると昔やりたかった理科系魂がウズウズしてきました。ちょうどその時皆さんは知らないかもしれないけど、浅田彰の’構造と力’を皮切りに。
浅田彰よりいじょうに、この時点で私は柄谷行人にはまったのです。あと柄谷行人経由で岩井克人もはまりました。はい、入門二冊。
あ、’構造と力は’微分と積分と、クラインの壺がイメージできれば本当は難しくありません。柄谷行人は、ハマりやすい人とだめな人がいる。これは文庫で手に入る初期の雑文と書評です。
で、そんなお仕事しながらも、お勉強に憧れを募らせる私は5月の連休を迎えます。
あれ、5月の連休って私が自分の考えをつきつめるいいPeriodなんですねえ。
ともかく、久しぶりに暇で、でも出かける気も起きず一晩中眠れないまま朝になって達した結論がこれ。
そうだ、アメリカで大学に行こう
さて、留学のための英語の準備にかんしては、ブログのこちらのPostに説明してありますので、読んでくださいね。
ひきこもりのための英語力増強講座 1 1984年、私がやった社会人の留学準備
崖っぷちから飛び降りて、一度は奈落のそこに沈んだ私ですが、ここに来て文字通り
新大陸に上陸します。
1984年、12月 日本脱出
今振り返ってみると、物質的にはずいぶんの貧乏な時代でした。さらに場所はOhioの田舎、日本食といえば、大きいスーパーに置いてあったお醤油ぐらい。
個人のパソコンなんてものはまだ復旧しておらず、信じられないぐらい何の楽しみもない時代でした。
さらに、学部を卒業する年の夏休みまで、車の免許も取ってなかったので、学期中に行けるとことといったら、大学が走らせていたバスぐらいでした。
私は、普通の大学生よりずーっと年が上だったので、寮ではルームメイトもいませんでした。特に一番最初の学期は、普通の寮が一杯で、ゲストハウスの一部を寮の代わりにあてがわれましたので、他の学生もあまりいませんでした。
さらに、英語はまだ片言かつ、相手の言っていることもあまりわからない。
とにかく、はなっから日本人の少ないところを選んだので、まあ泳げない子供をプールに放り込んでサバイブさせる、的厳しさでした。で、結果的に何に一番時間をかけたかというと、
勉強です。
一番最初のSemesterに取ったクラスは今でも覚えています。
微積分 I (プレイスメントテストの結果)
化学
仏語初級 I
英語(留学生向け)II (プレイスメントテストの結果)
体育 (Ballet 初級 I)
何故か全クラス午後の授業で、本当は朝早い授業のほうが好みなのに留学して半年は夜型の生活が続きました。
とにかくまだ聞き取り能力が低かったので、自分に取って割と楽な科目を選んだ結果がこれです。
仏語が一番らくでした。アメリカ人はとにかく外国語苦手な人が多いし、私が行っていた大学は2流の州立大学だったし。
数学は、正直微積分に最初から入れられるとは思ってませんでしたが、やはりこれは英語力がなくてまったく問題なかったです。ぶっちゃけこのクラスではぶっちぎりの一番だったので、先生に数学専攻にしたらと言われ、アメリカだったのでためらいもなくそうしました。
今振り返ると、純粋数学とかちょっとやりすぎだったなあと思ってます。なにしろ学界の外でほとんど潰しも聞かないし。あとあとで具体的に分かってきましたが、やはり数学者として行きていくには少し年を取りすぎていましたから。
それと比べると、化学は予想より大変でした。日本語で知っている単語の英単語を拾うのがとにかく大変だったので。もう、しっかり予習してしのぎました。
で、一番つらかったのは英語。留学生用のクラスはIとIIがあり、IIに入れられてしまったのですが、基本英語でいろいろなEssay (一番一般てきなのは、5パラグラフ)を欠かされたのですが、とにかく
赤、赤、赤
先生は、インドからやってきた大学院生で、この人がもうものすごく細かくて死にました。まあ、留学生として誰もがくぐらなくてはならない関門という感じです。
夜遅く行くところもないので、楽しみはラウンジにあったTVを見ることと、なぜか図書室にあった日本語の書籍を読むことぐらいでした。
食事の状況もすごく、普通の寮と違って大したキッチンがなかったのです。で仕方なく学食で食べてましたが、これが
死ぬほどまずかった。
比較的食べられたのは、朝食だけで半熟の目玉焼きが好物になりました。ともかく大学構内での唯一のごちそうはWendy’s でしたから。
だからといってあまり自分の生活を改善しようとはあまり思わなかったです。なにしろ大学進学を放棄して、やっと稼げるようになって改めて学生生活を始めたので、親に経済的に依存している状態がものすごく嫌でした。
今考えると、途中でもっと上のレベルの大学にTransferすべきだったのですが、私はともかく早いところ学部を終えて、大学院に行きたかったのです。
忘れもしません、最初の冬Semesterで、私は一冊の本に出会ったのです。これがタイトル。
’Winning PHD Game’
さすが、Googleしてももう出てきません。私はここで”Game’という言葉が使われているのになにかすごくアメリカ的なものを感じて感動しました。
つまりHow to get PHDという代わりに、Winning PHD Gameなんですから。
内容的には、TA (Teaching Assistant)と RA (Research Assistant)の違いとか、どうやって奨学金を取るかとか。でも私にとって一番重要な情報は、大学院でTAやRAになれば、
授業料はただ
これでした。
私は父にすべて丸抱えにしてもらっているのが嫌で、できるだけ早く大学院に行きたいと思ってしまったのです。
で、今振り返ると学部時代は、割と要領よく単位をとってとにかく早く卒業したい。これでした。もっと上のレベルの大学に行きたいという欲望を、いつの間にが抑え込んでしまいました。
結果すべてを3年半にぶち込み、GPAは3.95で、優等生として表彰とか、あと最後の半年の授業料を免除されたりもしたましたが、本物の学力ということになると結構浅いものが多かったと今は思います。
ただ、唯一きちんと勉強しなかったのがGRE,しかも一回しか受けなかったのであまり大した成績ではありませんでした。
で、ともかくメリーランド州で最大の州立大学、University of Maryland, College Parkの大学院数学科に1988年秋進学しました。
数学者の卵らしくなり、でも結局数学者の道は諦めました。
私の大好きなの仏小説作家Marguerite Durasの’L’amant’にこういう一説があります。
“Très vite dans ma vie il a été trop tard. ……. A dix-huit ans j’ai vieilli.”
ギャル風に意訳すると、’もう最初っから全部終わってたよ、18歳で、人生ほとんど終わっちゃった。’
一度だめになった人生を、もう一度やり直したのが私の人生だったりするので、やっと再出発する頃にはかなりの年になっているわけです。それでも基本後悔はしないのですが、
こと数学に関する限り、とにかく後悔先立たずの連続でした。
というわけで、今回は多分かなり意味不明かもしれませんが、これも私の大事な一部なので書き留めておきます。
1970年代に一世を風靡した、Differential Topology (微分位相幾何学)は、私が大学院に進む頃には、Dynamical Systemとして別の形に発展し、それ以外ではReal Algeblaic Geomatry(ベースが実数の代数幾何、位相幾何学からのアプローチがある。)が伸びていました。
でも、どちらも微妙に私がやりたい感じと違う。
まあ、それ以前に私は博士課程に進むための試験で、壁にぶつかりました。
解析(Real Analysis, Complex Analysis)に、苦手意識を持ってしまったのです。
で、Qualifying Examで代数と位相幾何学は一度で受かったのですが、解析だけ二度落ちて、その段階でまわりじゅうに見放されました。
なにせ、非公式に担当教授になってもらおうとしたひとに、突き放されてしまったのです。で、結果的に変人で通っている代数位相幾何学の教授に拾ってもらい、気を取り直してギリギリパス。
しかも、パスのスコアは結構ギリギリ(一科目だけなので普通より高い。)でしたが、この試験はたまたま平均点がいつもより低かったので助かったのです。で、その理由というのが同じ解析でも、関数解析の問題があり、これ普通の解析が得意なひとの正答率がすごく悪かったのです。でも、私から見るとこのてのアプローチはホモロジー代数でなれているので、簡単だった。
ずっーと後で、実に数学を諦める直前の年に、学部の実解析のクラスを教える羽目になったのです。で、それを教えながら突然、私があれほど苦手意識をもっていた実解析の典型的な証明のパターンが見切れてしまったのです。
’え、なにこれってすごく簡単じゃない’と思いました。
こと、解析に関しては、もっといい先生に習っていたら、ずいぶん時間を無駄にしなかったのにと思いました。でも、後悔の大きな種はもう一つありました。
線形代数の基礎、これも大学時代にきちっとしたクラスを取っていなかったので、たとえばDifferential TopologyやGeometryのクラスで、すごく苦労しました。
線形代数に関しては、Bobが大学でとったクラスの宿題を全部解いてあげていたうちに、(Bobの取った線形代数の教授は、数学専攻むけにふさわしい証明問題を毎週出題したのでした。)あ、これがわかっていれば、Differential Topology の問題、ローカルで特の別に難しくないじゃないと気がつく始末。
数学を勉強するにあたって、学部でいくつかきちんとしたクラスを取っていなかった結果が、後でこれだけひびいたのは、本当に悲しかった。
多分私は、一部の先生の目に映っているよりは、ほんの少しだけど数学的センスはあったのかもしれないと思う。でも、特別な天才をのぞいて、どんな基礎をきちんとマスターしているかによって、後々の伸びが違うのだと思います。
この辺の感じは、数学って、バレエとか、クラッシッカルミュージックの演奏にとてもにています。
ともあれ、私の担当になってくれた変人の教授、Dr. Greenがやっていたのは、実は超弦論に関連した、数学と数理物理学がまじわるかなり不思議なエリアではありました。
私は結果的に、複素空間の代数幾何に、代数位相幾何学的アプローチで立ち向かうという、よく考えると、かなり大掛かりなToolを使う分野に足を突っ込んだのです。
今振り返っても、すごく面白い分野だっただと思うし、それなりのセンスは多少あったと思う。でも、私には基礎体力がなかった。複素解析(実解析とは違うけど、やはり基礎計算が多い。)そしてごく当たり前の線形代数がしっかり身についていれば、具体的な計算で気軽にチェックすることがいくらでもできたのに…
数学と同じように、趣味で十分だったから小さいときからやってみたかったバレエとピアノ。そういえば、子供時代に好きだからとやらせてもらえたお稽古ごとはなかったっけ。
ともあれ、私が卒業した年は、アメリカの大学進学人口が底だったので、私の友人もすべて2-3年のPost Doc Positionの後、アカデミアを諦めました。
もちろん私も、たった一年のPostDocを、2つ取ったのが限界で、大学院卒業後満2年で、数学の世界を離れました。
超高年齢出産までは、人生終わった感120%でした。
実は、大学院卒業の同じ年の早春、父が逝きました。正直卒業式の写真を見てもらえなかったのは本当に心残りでした。
さて、日本の相続では、配偶者が50%を無税で相続し、残りを子で分配することになってます。これだけは不思議がられるのですが、私達3人の娘がまったくもめないので、逆に弁護士さんが疑心暗鬼になり余計な書類に署名させられたり下覚えがあります。
私は、自分の黒歴史を恥じたことはありません。が、この後Technologyのちからを借りて超高齢で出産するまでの私を正直あまり好きじゃない。
ものすごい大金ではないものの、普通に暮らして、時々ちょっとした贅沢をするくらいならそれなりに運用すると、あまり働かないでも暮らしていけるぐらいの金額がありました。
さらに、いつの間にか嫌に成長してしまったStarbucksの株、大学院時代から時々買いたしていた投資信託、そして父が私名義で投資を兼ねて買っていたその当時住んでいたタウンハウスも、私の手元に残りました。
それでも、学部時代から続いていたBFと簡単な結婚式をあげ、Green Cardを取りKPMGという6大コンサルにどうにか潜り込みました。
もっともコンサルの仕事形態はまったく私には合わず、2年立たないうちにBigDataのStart Upに潜り込んだのです。
肝心のBFはなんとPortugalのPost Docに消えてしまい疎遠になり、これで仮Green CardからFullのGreen Cardへと許可を受けるプロセスに齟齬をきたしたのです。
そのころ、今のHusbandであるBobとも出会い、Green Cardの申請中ということもあり、一旦仕事もやめました。ほぼ紙だけの2度めの結婚は何の問題もなく解消し、Bobと今度はいわば普通の結婚をしたのです。
Baltimore の古いRow Houseに魅入られたのは、こんな時期でした。父が買ってくれた郊外のタウンハウスを売ったお金でお釣りがくるような値段でそのRow Houseを購入しBaltimore に引っ越しました。中はかなりボロボロ、そして昔はともかく今となっては周りもかなり問題があるご近所に囲まれてもいました。
それでもこの家は、私が子供の頃から夢に見ていた、やたら天井の高い洋館。ボロな部分もずいぶんあったけど古いマントルピース、オリジナルの寄せ木細工の床、天井のすぐ下を縁取るクラウンモールディング。
あの頃の私にとって多分一番大きく心を占めていたのはこの古い家でした。私はさらにリタイアでBaltimoreを離れる同じ持ち主から、もう一軒、こちらは6Unitのアパートに改造された古い邸宅のような家も購入しました。
Bobの方は、社内公募のIntranetの仕事に応募し見事合格、お給料も倍増。あの頃が金銭的には一番裕福でした。もっともBobはあまりお金を使わないし、私はともかく一人でした。
そして
死ぬほど退屈してしまったのです。
家のリノベや、アパートの大家としての仕事はとてもではないですが、フルタイムの仕事ほどのウエイトはありません。
だからこそ、無理を承知でBob(16歳年下)の家族を持ちたいという希望を受け入れ、不妊治療、いや超高年齢で、Reproductive Technologyの助けを借りて子供を生むことを目指したのです。
超高齢ワーママExtremeとして新しい人生が始まり、現在進行中
妊娠がわかったとき、嬉しいというよりホッとしました。
まだ詳細を書けませんが、正直この妊娠に至るまでに失ったものも少なくありません。
さらに、人生というものはとにかく想定外の出来事に満ちています。
当初の予定では、私が働き始めBobが大学に通学しながら娘を附属の保育園に連れて行くというものでした。
まあ、出産後一年はんだけは、私がPart Timeで働き、週に2-3回乳母さんのような、シッターさんに来てもらいましたが。
育児に関しては大体3ヶ月で、もうこれ以上専業母はできないと思いましたから。
ところで、これ日本の男性の殆どが知らないのですが、生まれてしばらくの間、
赤ちゃんは一回2-3時間ぐらいしか寝てくれません。
つまり親は2-3時間毎に赤ちゃんに起こされるのです。
私だって知りませんでした。Bobはあの頃結構通勤が長かったのですが、それでも夜中一回は起きてくれました。私は母乳と粉ミルクの併用でしたが、ともかく赤ちゃんが目覚めるたびに大抵はミルクか母乳ということになります。
まあ、これだけ一つとっても、ワンオペ育児なんて、今の普通の若い人には無理でしょう。少子化当然ですよ。両親ともに、最低数ヶ月は育児休暇を取るべきな最大の理由は、この赤ちゃんの睡眠パターンですがね。
さて、Bobが通学を始め、娘が2歳になるちょっと前の冬学期のはじまりからやっと保育園に連れて行くようになりました。
が、翌年の次年度の進級の手続きに言った時に、はじめて娘に発達障害があることを告げられました。
で、この保育園からは追い出され、後もう一年普通の保育園に通わせて見たのですが、そこでも娘の状態の悪化を指摘され、発達障害専門の施設に入れるように突き放されました。
その少し前、私は自分の給料が、他の資格的に劣る人間に比べてかなり低いのを偶然発見してしまい、これがきっかけでほぼ自営業のようなFinancial Plannerへの道に飛び込んだばかりでした。
ここから、すべてが想定外、お金も時間も、そして娘の発達障害も手探りで每日を生きていく日々が始まったのです。
この辺の細かい経緯は詳細を別にして、結果と大きなイベントだけまた箇条書きにしてみます。
最初はNegativeな状況から。
1. 父の遺産をすべて食い尽くしました。
2.今残っている借金は、最後に残った自宅のローン(3500万ぐらい、ただかなりの低利で、月の支払いは15万ぐらい。)とアパートを売った時にでた書類上のGainのせいで背負い込んだ税金の残り、後300万ぐらい。
3.Bobは鬱になり、大学をやめその後数年さらに無職のまま引きこもり状態でした。5年前その頃私のクライアントさんだった人の会社で今は配達をしてます。まあ、昔マクド今配送というぐらいの底辺仕事ですね。
4.私はここにいたるまで、FPのキャリアを諦めなかったものの、年収が500万を越したのは、今の所4回しかない。
5.夢の家だったこの巨大なRow houseは、メンテナンスが滞りボロボロ。今となっては巨大なお荷物化してる。
では、代わりに何を得たか、
1.娘はBaltimore CityでBestな理科系の公立高校に進学!!成績も、科目によってはTop10%に入る。発達障害とは未だに格闘しているが、サポート体制はほぼ万全。大学進学も射程内に入ってきた。
2.Bobとの関係は同じ建物内での別生活という形で落ち着き、時々は家族で一緒に何かをすることもある。さらに、Bobは娘の文化系の科目をサポートするようになり、かなりの効果が上がっている。
3.娘は先生を替えたことで、すでに10年やっているPianoの上達がここに来て加速している。
4.4社目にしてついに、自分の考えるBusiness ModelをサポートしてくれるFinancial Planning Firmに所属。ほぼ90%の面で、とてもやりやすくなり、モチベーションをキープしやすくなった。
5.自分の考えるFinancial Wellness ‘Five Seasons of Money’を書き上げる。一応200冊今のVersionでPrintしたが、周りの助言により、いまはこの本の内容に基づいたセミナーのプレゼンにFocus. 後、BrandingのSpecialistも廉価で雇った。(友人で、しかも病み上がりなのでお安くしてもらいました。)
正直に言いましょう。
私は、子供もいず、人生で何をしたいかもわからず、お金だけは減らなかったあの時期のことを思い出すと、あまりいい思い出がないのです。何より私は、
あの頃の私が大キライ、今の私が大好きです。
そして、ここ数年日本との関係が深まっています。
1.現在無料匿名、有料実名、計2つのOnline Communityに参加し、少しずつ日本の若い人とのつながりが生まれています。
2.2018年8月より、このブログの每日更新継続中。
3.ブログのPVが、Post のトータルが200をこす頃から、月に一度ぐらいの割合でMiniバズが起きるようになり、PVの伸びが少しずつだけど加速し始めました。
4.妹の会社の顧問となり、年にトータル約2ヶ月は日本で過ごしてます。この先、Net経由の作業も徐々に増やしていきます。
あと、何らかの形でYoutubeも始めようと思っています。ここ数ヶ月比較的最近ブログからYoutubeに参入してきたブロガーさんを見ていていろいろ思うところがあります。基本日本にいる期間に集中して体制を整えたり、必要なスキルを学ぼうかと思っています。
というわけで、とうとう連載化した私のながいProfile,ここでやっと完了です。これからもこのBlog,そして私のコンテンツよろしくお願いいたしますね。
Hertopos